暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

「冷え」がなんだって?

栗本先生がラジオ「栗本慎一郎の社会と芸術を語る」でゲストに呼んでいた、青山自然医療研究所の川嶋朗(あきら)の本を早速amazonで取り寄せて読んでみた。

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)

毎朝冷たいトマトジュースや野菜ジュースを飲んだり、オヤジやお袋がやっていた朝一の冷たい水道水をコップに一杯飲み干すっていう民間健康療法(?)を真似ていたのだが、本書を読んで止めました。確かに、朝から冷たいものを胃腸に入れるとお腹を下しがち。毎朝お湯を飲むようにしてから、便通も良い感じがする。

川嶋は冷えによる血行不良がもたらす病態として次の3つをあげている。

  1. 酵素反応が鈍くなり、免疫と代謝が低下
  2. 有害物質がたまり血管が詰まりやすくなる
  3. 栄養素が行き渡らず細胞が不活性

まぁ、ここまでは良しとしよう。でも、ここからがすごい。

  • 心の病も冷えから
  • 非行も冷えから
  • がんも冷えから
  • 不妊も冷えから
  • うつも冷えから
  • EDも、更年期も冷え
  • 冷えてるから自殺したくなる

全て目次からの抜粋。で、最後はホメオパシーで〆る。

いったい何なんだ。有意の範囲内で語って欲しい。

※2013.2.24追記

これを読むと、多発性硬化症になると体温上昇は避けるべきものらしい。

考える生き方

考える生き方

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栗本先生が大学(有明教育芸術短期大学)の講義で「説得力あるね」と言っていたというので、釜池豊秋の本も買って読んだ。

食べても太らない! 「糖質ゼロ」の健康法 (新書y)

食べても太らない! 「糖質ゼロ」の健康法 (新書y)

でも、 このエラソーな講演をみてうんざりして止めてしまった。

釜池豊秋先生 第17回日本がんコンベンション かまいけ式健康法

糖質カットには、その後医学的にNGの声も上がっているようだ。 

糖質制限ダイエット、長期は危険? 死亡率高まる恐れ

 

ということで、先生が紹介した健康法で私自身が3年以上続いているのは、ルンブルクスルベルスだけになっている。それも、センヨウではなくワキ製薬のもの。これが一番コストパフォーマンスがよい。

「新しい世界史の教科書」(仮) あとがき

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長沼さんが先生の新著のあとがき(の一部)を先行紹介してくれている。

http://d.hatena.ne.jp/thunder-r-labo2/20130206/1360134029?_ts=1360161869 

過去の本のあちこちでちりばめた地球史についての指摘は、読者が過去に優等生であればあったほど混乱を与えてしまったはずだ。その構築された通説での世界観をゆるがせたり傷つけたりさせてしまったはずだから、それらをまとめると地球上の本当の歴史はどうなるはずかということを、つまり真実の全体像を示しておきたかったのだ。
 要するに本書は少なくとも半世紀以上の、経済人類学による真実に対する愛と追求の末の結論を、一度、筋の通った形で後進に伝えておこうというものなのである。それだけである。
  • やっぱり愛なんだよ、愛
  • 後進を考える時期なのだ。Xデーを僕らは覚悟しなくちゃいけない
ただ、これにより、近代市場社会は人類普遍の社会ではないという経済人類学者カール・ポランニーの喝破も、古代社会の本質への見通しも、江戸時代の人口問題も、不思議な縄文社会の王国も、巨大前方後円墳の謎も、日本とヨーロッパの経済成長の基盤も、ヨーロッパ史における猫狩りと魔女狩りの愚かさも、今も続く中国の帝国主義の根源も、アラブ社会とイスラエルの激突も、みな有機的につながっているものとして理解できるはずだ。
  • 大好きな猫をさらっとカブセてくるのもクリモト流(実際中世にあったのだ、猫狩り)
  • 「有機的な繋がり」とは何なのか、なのだよ、問題は
一見ばらばらに見えても世界の動きの根源は一つである。ばらばらに見ているからばらばらに見えているだけで、われわれが生きている世界の動因は間違いなく一つだ。われわれは、決して個別ばらばらの生命を営んで生きているものではない。そんな力は今の人間にはない。
  • 物事の動きや変化を引き起こすのは静的な「構造(必要条件)」じゃなくて「動因(十分条件)」
  • あまり根源は一つだ一つだと連呼すると、究極原因一元論だと読まれちゃうのだが
  • 過剰-蕩尽のシステムから逃れる力が今の人間には「ない」のだ
そもそも近代という事態あるいは現象自体が、すべてを合わせて一つの生命体のようなものだと考えるべきだ。実はわれわれは現象を作り出すために生きているのだ。生かされていると言っても、そう大きな間違いでもない。
  • 一つの生命体だということは、各パーツには定められた機能があるということだが、では、パーツである個人あるいは個人の自由意志とは何なのか。
  • 「事態」と「自体」でうっすらダジャレってるのがわかった人、手を上げて
私が過去にいくつかの場所で、あるいはいくつかの機会で、生命の意味は生きること自体にあると言ったのは、ほかでもないこういうことだったのだ。そこに深遠な意味をこめるつもりなど全くなく、直截的に述べただけのことだった。
  • 個々の生命の意味は、上位の包括的全体たる生命体を生かすために生きることだ、と
  • 俺(先生)にとっては直截的なだけだが「優等生」のみんなにはどうかな、深遠な意味を感じちゃってるでしょ、と暗に語るところも常套句
80年代にいろいろくどくどと「意味と生命」について論じたりしたが、意味も生命も静的なものでは絶対にないぞ、また動的なことでなくてはならないぞ、と強調した。要するに単純に生きることそれ自体が意味だと言ったのに過ぎない。
存在とはEXISTENCEではなくBEINGなのだと言ったのも同じことだ。私はしばしば科学哲学者マイケル・ポランニーの言を借りて論じてきたものだが、今となってあっさり言えば、彼の言葉は私にとって勉強したから理解したというようなものではなく、勝手に向こうから飛び込んでくるように私の胸に響いたものだった。そういうものなのだ。
  • 確かに胸に響くけど、勉強すると理解がもっと深まる。マイケルの言は、勉強して理解を深めたほうが絶対おもしろい。
マイケル・ポランニーの前には日本の文学者坂口安吾の日本史論にただただ納得共感したことがあって、おそらくきちんと分析すればマイケルと安吾に知的共通点があることが証明されるのだろうが、ここでもまた外的証明など何の意味もないだろう。
  • 安吾の話は法社会学の講義でもしていた。当時どこぞの大学生が「栗本慎一郎坂口安吾の共通点」というテーマで卒論を書いた、と。
  • 僕は分析した論文があれば読みたいけどな

Howard Hunt Pattee

Hierarchy Theory; The Challenge of Complex Systems.

Hierarchy Theory; The Challenge of Complex Systems.

目次をみると表紙記載のPatteeは編者のようで、本書(1973)は複雑系システムに関する論文集だ。

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<目次>

Foreword v

Preface xi

  The Organization of Complex Systems 1 (28)

        Herbert A. Simon

  Hierarchical Order and Neogenesis 29 (20)

        Clifford Grobstein

  Hierarchical Control Programs in Biological  Development 49 (22) 

        James Bonner

  The Physical Basis and Origin of Hierarchical Control 71 (38)  

        Howard H. Pattee

  The Limits of Complexity 109(20)

        Richard Levins

Postscript: Unsolved Problems and Potential 129

Applications of Hierarchy Theories

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このPatteeの単体論文集がBiosemioticsの学会誌11月号として先月出版されたのだが、Polanyiを引用しまくり。Editor2名のうちひとりはホフマイヤー(まだ准教授か、このヒト)。もちろん、上の論文も含まれている。

値段が高い。

Patteeの論文一覧は下記サイトで確認できる(一部論文は参照も可)。Biosemiotics(Rothschild博士が作った言葉)の重鎮、という訳だ。

となると気になるのはマイケルがPatteeを知っていたかどうかだが・・・。 

知っていた。"Meaning"のp.176(第11章:秩序)に次の文章がある。

Meaning

Meaning

胚の発生を制御する原理を語っていく中で、ほとんどの生物学者はある単一のレベルのみのルールでこの原理を説明しようとしているが、一方で階層的な二重制御の原理が存在するという方向で研究を進めている研究者もいるのだとして、上述の1973年のPattee編集論文集を引いているのだ。

 すっきりした。まとめよう。

  1. 改めて、マイケルとBiosemioticsは相性が良い
  2. Meaningもきちんと読み込もう。いいことが書いてある。
  3. Patteの論文も積読リストに追加。

近況その2

twitterでの言語学師匠optical_frogさんの待望の翻訳書が出た。

言語における意味

言語における意味

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カバーをとってみた。20年後ぐらいに書棚でいい感じに仕上がるな、これは。

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optical_frogさん独自の補足図もつくのだ。

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サポートサイトでいろいろ試し読みができるが、翻訳者まえがきから紹介しよう。

かんたんな例を考えてみましょう.太郎と花子がお互いにこんなことを言ったとします;;
    太郎:「私が正しい,あなたが間違っている!」
    花子:「私が正しい,あなたが間違っている!」
2人の言い分は矛盾していますが,発している文そのものはまったく同じです.したがって,その文の意味も同じはずです.ということは,太郎と花子は同じ意味の表現を発して意味が異なることを言っているわけですね.もちろん,ここにはなんの背理もありません.表現そのものがもっている意味とその表現を具体的な場面で使うことで伝達される意味は異なる水準にあるという,ただそれだけの話です.前者は意味論の領分,後者は語用論の領分に入ります。

 分厚い大著だけれど、Aitchson's Linguisticsシリーズのようにこれから継続的に読んでいく。

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最初の写真に写りこんでいるのが、福井直樹の新著(というか、2001年旧著の文庫化)。

新・自然科学としての言語学: 生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)

新・自然科学としての言語学: 生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)

チョムスキー生成文法の企て』の訳者序説が冴えに冴えていて一発でファンになったので、即購入し読んでいる。

生成文法の企て (岩波現代文庫)

生成文法の企て (岩波現代文庫)

チョムスキー生成文法)についてはこれが私の主関心。この2冊を読み終えたら、もっと深くマイケルとわかりあえる気が、してる。

 

近況その1

7月の異動以来、ほとんどアウトプットができていない。

はぁ・・。

facebookで誕生日のお祝いの言葉をいただいたことだし(?)、近況をば。

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面白そうな本が出る。

生命起源論の科学哲学―― 創発か、還元的説明か

生命起源論の科学哲学―― 創発か、還元的説明か

amazonの内容紹介によると「本書の元をなす博士論文は学士院奨学金賞とパリ大学総局賞文系部門をダブル受賞した。フランス科学哲学の最前線。」だという。ググっても著者のクリストフ・マラテールについてはよくわからない。でも、マイケル参照は確実だろう。

年明けの出版が楽しみだが、値段もハルし、保険をうっておきたいところ。そこで、こんな書籍を翻訳している訳者ならば同じような問題意識を持ってるはずだとにらんで、東大の佐藤直樹の著書を入手し読んでいる。

エントロピーから読み解く 生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命

エントロピーから読み解く 生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命

「はじめに」から佐藤の問題意識を紹介しよう。

私は生物学を専門とするが、もともと学生の頃から哲学や思想には特別の関心をもって勉強してきて、いつか、両者を総合しようと準備して来た。本書はこうした生命の基本的かつ統合的な理解をも目指し、生命の理解の仕方や生命科学の教育に、新しい風を吹き込むことができると期待している。

副題の「めぐりめぐむ わきあがる」 は、佐藤が生命を統合的に理解するためのキーワードだ。めぐる=サイクル、めぐむ=与える、わきあがる=創発。下位層の循環的な秩序の勢いから新たな上位層がわきあがるというイメージだ。

地味な文章で知的興奮にはやや欠けるが、引用文献の一番目が清水博「生命を捉えなおす」だったり、エントロピーが物理化学と生命をつなぐ創発のキーだとしているあたりは、もちろんのごとく「意味と生命」を思い出させてくれて、俺的にはグッド。

この訳者なら、冒頭の書籍は購入OKだろう。

 ========追記 2013.1.11

みすず書房のサイトに冒頭書籍の目次と概要紹介が出た。

http://www.msz.co.jp/news/topics/07742.html

生命の創発を語る書籍の目次レベルで、マイケルが、暗黙知が一言も言及されないとはなぁ。立ち読みして索引見てから買おうかな。。。

<目次>

  • 序文
  • 第一章 生命とさまざまな生命起源論
    1 生命の定義
    2 生命の起源とは
  • 第二章 生命のさまざまな起源論──歴史的にみた問題点
    1 生命の起源についての歴史的アプローチ
    2 確かに煙はあるが、決定的証拠(スモーキング・ガン)は見つからない
    3 不確かな状況証拠
    4 生命出現が起きた時間幅は正確にはわからない
    5 何度も上書きされて解読困難な生命
  • 第三章 生命のさまざまな起源論──物理・化学的にみた問題点
    1 物理・化学的アプローチ
    2 生物を説明する図式
    3 依然として説明できない生命
  • 第四章 創発概念の発展の核心をなす生命
    1 生物の性質としての創発
    2 創発の不遇の時代と再生
    3 生命科学における創発の再浮上
    4 生命の創発についての現在の問題点
  • 第五章 さまざまな形をとる創発
    1 創発の哲学的概念
    2 イギリスの創発論者たちの考えた創発
    3 論理実証主義者たちの考えた創発
    4 機能説明的な意味での非還元論としての創発
    5 結論
  • 第六章 創発と説明
    1 水が透明であることは創発的な性質か
    2 創発と説明モデル
  • 第七章 実用主義的な創発
    1 還元的な(実用主義的)説明
    2 創発実用主義的な定義
    3 水の透明性への適用
    4 実用主義的な創発とそのさまざまな側面
  • 第八章 われわれの知識の現状に即して考える生命の創発
    1 実用主義的な創発の形式的な条件
    2 歴史的なケース
    3 物理・化学的なケース
  • 第九章 生命は将来もずっと創発的であるのか──前生物的な化学的過程と化学進化の検討
    1 部分過程における創発
    2 前生物的な化学的過程と創発
    3 前生物的な化学進化と創発
  • 第十章 生命は将来もずっと創発的であるのか──前生物的な自己組織化の検討
    1 部分過程における前生物的な自己組織化現象
    2 構造的自己組織化と創発──リポソームの場合
    3 機能的自己組織化と創発──自己触媒ネットワークの統計的モデル化の場合
    4 機能的自己組織化と創発──遺伝子ネットワークのモデル化の場合
    5 結論
  • 結論
    1 実用主義的な創発
    2 生命の創発
    3 その先にあるものは
  • 訳者あとがき
    引用文献
    人名索引

 

 

 

メルロ=ポンティ、クラーゲス

メルロ=ポンティがその心身論で明確にクラーゲスを引いている箇所を備忘するとともに、マイケルの理論から補足を加えておきたい。

行動の構造

行動の構造

第四章 心身の関係と知覚的意識の問題

p.310

精神は身体を使用するのではなく、身体を絶えず物理的空間の外へ移行させながら、身体を通して生成するのである。

 →職人が道具を使うように、精神が身体を使うのでは「ない」と言っている。身体は対象ではないのだ。では精神と身体のダイナミズムはどのように記述されうるか。「身体を通して生成する」は適当ではあるが、我々の「創発」の説明には及ばない。

われわれが行動の構造を記述したのは、その際、行動の構造が<物理的刺激と筋肉の収縮との弁証法>には還元されえず、その意味で行動は、即自的に存在する<物>であるどころか、それを考察する<意識>にとってのみ意味を持つ全体だということを示すためであった。が、また同時に、「表現の動作」は、逆にわれわれの肉眼に見える<意識の光景>、つまり、<世界にやって来た精神>の光景なのだ、ということを示すためのものでもあったのである。 

→他人が私の心を知ろうとする場合、私の行動に潜入することで私の心に焦点を当てる。それが相手の心を知る認識の仕方だ。私のさまざまな行動は私の心に統合され、理解される。そして心/意識が現象するところが行動となる。「光景」などと表すよりも、創発の層の理論に基づき説明するほうがすっきりするし、包括的だ。

もちろん、そうは言っても、心と身体の間に、概念と言葉の関係にも比べられる<表現>の関係を無条件に仮定したり、また心は「身体の意味」であり、身体は「心の顕現」だと定義したりすることはやはりできない、というわけも十分に納得してもらえよう。

→これはクラーゲスに対する批判となっている。が、十分な批判足りうる説明を続けることができるのか。

こういった定式は、おそらく互いに結び合ってはいても、しかし相互に外的で固定した関係を持つ<二つの項>を思い出させるという不便を持っているからである。

→クラーゲスは二元論だと言いたげなポンティ。気持ちはわからないでもない。最終的にクラーゲスは魂と精神の双極性を語るのだし。だがしかし、クラーゲスの思想もマイケルの層の理論に照らして理解すると明解であり、決して二元論ではない。

勿論、非決定を孕むfrom-toの論理関係を主張する層の理論においては「不便」はなく、マイケル=クリモトにおいてその心身論は固定的な二元論に堕しようがないのだ。

しかるに、われわれの身体は、時には、生物学よりも高等な弁証法に属する<志向>を外に現すが、また時には、自らの過去の生活によって形成された諸機構の活動によって、例えば瀕死の人の身体運動のように、自分が今では持っていない<志向の身振り>だけをすることもある。いずれの場合も、心身の関係や、その関係項そのものは、「形態化」が成功するか失敗するかによって、或いはまた従属する諸弁証法の惰性が乗り越えられているかどうかによって、変わるのである。

 →from-toの論理関係(形態化)が成功裏に達成されるとき、我々の身体はsubsidiaryに感知されることで焦点たる心を発現する。それが<志向>だ。また、身体の境界条件=どのように行動するかを制御するのは心であるが、その制御度合は「ゼロから任意の値を取りうる」。瀕死の人の身体運動とは、上位層たる心の制御がゼロに近い状態だといえる。

 

このあと、ポンティの記述は更に冴えていく。

 

ドゴン。シリウス。

BRUTUS 1983年4月1日号 「黄金のアフリカ」

特別定価450円

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p.83 黒アフリカから宇宙へ。<文:栗本慎一郎

<はずれドゴン>

黒アフリカは、宇宙につながっている。切り立った断崖に住む20万人のドゴン族は、長い年月のあいだ、近隣の諸部族がイスラム化し、あるいはフランス人にまるめこまれても、決して同化せず、屈服せず、孤独な生を守り続けてきた。

そもそも、現在のマリ共和国の地、かつてのフランス領スーダン(現スーダンとは全く別)は、草の根に生えるという豊かな黄金の伝説の他に、人類学者マルセル・グリオールが、なんと25年間に及ぶフィールドワークの結果、世に報告したシリウス星についての不思議な伝承が偏在する土地なのだ。

夜空に、最も明るく輝く恒星シリウス。この星にまつわる伝説を持つ民族は、全世界にいる。けれども、マリの諸部族の神話が伝えるのは、いずれも、シリウスに住む生物または神が、我々地球人と直接関係があるということである点に特徴がある。そして、いずれも、金狼ジャッカルや神の犬を使いとして、人間の夢が宇宙を駆けることを説明するのだ。この地域のバンバラ族の仮面には、他のアフリカの諸部族と異なった特徴がある。空を飛ぶカモシカの角や、ジャッカルがしばしば象られているのだ。

東欧のトランシルヴァニアや、その周辺の南スラブ諸民族にあまねく吸血鬼の伝説があるように、この地の人々には、つねに地球人の故郷シリウスという伝説を持つ。ことに、バンディアガラを入口とする断崖の地に住むドゴン族、セグウ地域に住むバンバラ族とボゾ族、コウティアラ地域に住むミニヤンカ族が代表的である。

 トランシルヴァニアの吸血鬼伝承が、当初のマニアックな追求から脱して、次第次第にその歴史的、生命的根拠が明らかにされてくるように、この旧フランス領スーダンのシリウス伝説も化学的に検証されねばならない。私は、先にトランシルヴァニアを訪れ、闇の中で吸血鬼とならざるをえなかった人々の悲鳴を聞いた。今回は、ぜひ、黒アフリカの一部がなぜ、最先端の秘儀として伝えつつ、かように宇宙のシステムに興味をもつのかを探りたかったのだ。

<夢は天空へ>

ドゴンが私の心を魅きつけたのは、グリオールの長年の研究と、アメリカのドゴン的はずれ者の研究者ロバート・カイル・グレンヴィル・テンプルの情熱のゆえであった。

フランス社会学の超大物マルセル・モースの弟子として出発したグリオールも学者としては目茶苦茶におかしな人だった。女を連れて行かないと、ちゃんと相手の社会に入れないと主張して、つねに、女性の学者や助手を連れて現地に入った。そして、シリウスにこだわる黒アフリカ各地の神話を採集し、世に出した。その彼が死んだ時、マリ国内で行われた葬儀には、なんと25万人もの現地民族が姿を現したというから凄い。全ドゴン人口より多いのだ。

グリオールが最初にドゴンの村に入ったのは、1931年のことで、このとき同行した一人がかの『幻のアフリカ』を書いたミッシェル・レリスである。もちろん、ほかにデボラという女性民族学者も同行している。

1940年代前後のグリオールのドゴンについての報告は、文字通り、全世界の知識人を仰天させた。ドゴンのシリウスや宇宙についての説明があまりにも整然として、近代天文学に照らしても正確だったからだ。

グリオールは、ドゴンがその部族内の特別の地位の者にだけ伝える、世界創造にかかわる秘儀を、全部伝えられたというが、活字ではその一部だけを報告した。具体的には、第4段階まである秘儀的伝承の第2段階までを、我々は彼の本により読むことができるというわけだ。

かつてアーサー・ヤングの協力者だったテンプルの関心の持ち方は、一風変わっていた。もともとなぜかシリウスとは何かについてこだわっていたテンプルは、グリオールとその仲間のディータランのドゴン研究を知って激しいショックを受ける。

彼は、「これは、真実だ」と思っただけではない。地球人が宇宙のいずれかの星の生物によってつねに観察されており、地球が具体的には何千年かに一度、定期的な形でコンタクトを受けているのではないかという仮説を立てるまでに到達する。となると、宇宙のどこかとはシリウス系であり、地球上のどこかと言えば黒アフリカの奥地バンディアガラの断崖のドゴン族の村なのではないか。

テンプルの著書『シリウスの謎』は、1968年に書き始められ、76年に出版される。私は、アメリカの留学中に購入したが、その不思議な内容にびっくりした覚えがある。しかし、この本は、テンプルの思い入れによる牽強付会や筋に関係のない無駄な長広告も目につくためか、決してその真価が理解されなかった。

しかし、我々は、この書の内容を無視することはできないのだ。誰でも、数年前に天文学ブームを呼んだブラック・ホール の理論を知っているだろう。宇宙空間において、極端に質量が集約され、無限に小さくなった天体であると、実際上はそれは何でも吸いこむ穴のようになってしまっているということだ。

その発見を導く根拠になったのは、ホワイト・ドワーフ白色矮星)という、無限ではないが非常に小さく質量が集約された星の発見であった。かなり強力な天体望遠鏡の使用によって、シリウスが実は、大きな星シリウスAと、ホワイト・ドワーフたるシリウスBとの複合体系だと知られたのはごく最近のことでしかない。

シリウスA星の1万分の1の明るさのB星が、アメリカ海軍天文台で写真に撮られて確認されたのが、1970年のことである。けれども、ドゴン族はずっと前から小さくて重要な星シリウスBの存在を語り、ポーという名前までつけていた。あまつさえまだ学問的には未確認のシリウスCもあると語ってさえいるのだ。これは、いくらドゴン人の目がよくても見えるわけはないのだが。

ドゴン族が、グリオールの前で砂に描いてみせたシリウス系の天体運行上の軌跡図を見て驚かない人は立派である。なぜなら、それは全く近代天文学の成果と一致しているからだ。なぜ、こんなことを知りえたのだろうか。テンプルの考えでは、シリウス系の生物が、ドゴンに直接コンタクトしたということになる。

<嘘つきドゴン> 

 ドゴンの神話は、不可思議である。彼らはポー星と、極小の種子ながら大切なディジタリア(キビ)を結びつけている。このキビは、小さいが生命の源になるものなのだ。つまり、ドゴンによれば、我々人間全員は、すべてポー星からきた一族、つまり「ポーの一族」ということになる。「ポーの一族」は、神様アンマによって、天空の箱舟に乗せられて地球に来ることになっていた。男と女は、元来、一つの体であったのに、はたとちりしたはぐれ者の男の赤ん坊がいて、双子の相手の女をおいたまま、先に地球に到達した。おかげで、人間はつねに、自分と双子の女(あるいは男)を一生捜し求めることになってしまった。そのうえ、ヤツは、母であるはずの大地と近親相姦した。これが、人間の原罪である。

そのせいで、人間は永遠に死というやすらぎをえることができず、死んでも蛇の姿になるしかなかったというのだ。ドゴンの村で蛇やその仲間のトカゲが、やたら彫刻されているのはそのせいだ。

ドゴンの仮面は、蛇に変身するだけで死ねない人間の精神を救ってくれるためのものである。若者だけが仮面をつけることが許されていて仮面結社を形成する。彼らが、高い竹馬のような足をつけて踊る仮面の踊りは、はるかなる故郷、天空への回帰を象徴するのだ。

ところで、なぜか突然ながら、ドゴン族は実に「嘘つきドゴン」なのであった。

以上に関するかなり知識を持って訪れる旅人に、ドゴンの連中は、まことに奇妙な反応を見せる。

かつて、変てこな学者グリオールに洗いざらいしゃべった老人が出たことをシリウスから糾弾されたのか、 私のような人間を見ると、聞きもしないのに先方からワザワザ、「シリウスの話を知っている奴はもういないよ」などと話しかけてくるのだ。・・・もうその頃になれば、知っていようと忘れていようと、短期の訪問者などに彼らが何もしゃべるつもりはないことは、充分判っていた。

******

断崖絶壁に住む孤独民族ドゴンの人々は、間違いもなく、不思議な連中だった。おそらく、今や地上の異邦人とでもいうべきだろう。シリウスにいる父なる神も愛想をつかしているかも知れないが、我々も神に愛想をつかしていい頃かも知れない。

文中で紹介されているテンプルの著書「シリウスの謎:THE SIRIUS MYSTERY」、当時は未邦訳だった。

知の起源―文明はシリウスから来た

知の起源―文明はシリウスから来た

青い狐―ドゴンの宇宙哲学

青い狐―ドゴンの宇宙哲学

 

水の神―ドゴン族の神話的世界

水の神―ドゴン族の神話的世界

↓ グリオールの調査に対する反論(ドゴンのシリウス信仰は西欧から持ち込まれた結果)はこちら。

Dogon Restudied: A Field Evaluation of the Work of Marcel Griaule

Walter E. A. van Beek

Current Anthropology Vol. 32, No. 2 (Apr., 1991), pp. 139-167