暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

堀内寿郎とマイケル

1981年に出版された堀内寿郎追悼文集『漕魂』に、こんなエピソードが載っていた。

先生は昭和七年、三十才で理学博士の学位を取得され、その年俊英の集うドイツのゲッチングン大学に留学されたのであるが、先生のお話によると、先生が参加されたゼミナールの仲間達の学問的水準は皆極めて高く、先生が日本で積み上げられた学問的水準などは問題にならない程だったという。その上言葉の不自由があった。言葉が出来ないと中味の学問にまでひどい劣等感を持つようになってしまう。それはもう堀内先生にとって嘗てない体験であったに違いない。口惜しさの余り、人目につかぬ所にかくれて幾度泣いたか知れないという。
更に先生は言葉を継がれる。大抵の者はここで神経衰弱になってしまう。そうして自ら学ぶ態度を放榔して西欧陣営の前に招伏し、西欧万能の精神に凝り固って帰って来る。確かに俺も今から考えると神経衰弱だった。但し俺の神経衰弱は他の人と違っていわば陽性の神経衰弱だ。寝る間も惜しんで気が狂った様に勉強した。確かに異常だった――と述懐された。
然しこの異常なまでの努力によって、先生は短期間に言葉や学問上のハンディキャップを克服され、彼等と対等の立場で遠慮のない討論を交すことが出来るようになったのである。

ゲッチンゲン大学のオイケン(A.T.Eucken)の所にまずは行った堀内(当時なんと自費留学!)。翌年にはマイケルに呼び寄せられて(公職追放令を受けてマンチェスターへの移動を決めていた)カイザー・ウィルヘルム研究所に移り、ハンガリーからの留学生1名と実験助手1名、それに堀内寿郎とマイケルの4名はマンチェスター大学に移る。そして年間18枚の論文を出すという、もっとも多産な1年を同じ研究室で過ごすのである。

 さまざまなお話をうかがったが、中でも最も印象に残っているのは、マンチェスター大学におけるポラニ教授との壮絶なまでのやりとりである。ポラニ教授との協同研究を進めて行くうちに、研究は巨大な暗礁に乗り上げてしまった。その研究の内容がどの様なものであったかは、門外漢の私には分らない。しかしこの問題の解明がもたらす学問上の価値が如何に大きいかを誰よりもよく知っておられた堀内先生は、持ち前の闘志を燃やして真向からこの問題に取り組み、一歩も退こうとはしなかった。

三日三晩寝もやらずに考え続けた挙句、心身共に疲れ果てて椅子にもたれたまま、ついウトウトと居眠りをしていた先生の頭の中に、サッと天啓の如き閃めきが走った。ハッとして目を覚ました先生は、憑かれたようにこの啓示を追い求めて理論と実験の展開を進めて行った結果さしもの難題を解決する見透しが得られたのである。

その結論をポラニ教授の所に持って行ったところ、ポラニ教授は大変によろこび、やがて一つの論文をまとめ、「君の発想の展開をこの様に経めた」と言って堀内先生に示した。先生が読んで見ると、堀内という名は何処にも出ていない。すべてはポラニ教授が一人でやったように書いてある。カチンと来た堀内先生は即座に抗議を申し込んだ。黙って聞いていたポラニ教授は、やがて論文を書き直して持って来たが、それには論文の末尾に堀内博士の協力に感謝すると附記されているだけであった。

ここに至り堀内教授は憤然としてポラニ教授に喰ってかかった。「この発想は飽く迄私のものである。その証拠に私が始めてこれを説明した時、あなたは仲々理解出来なかったではないか。それを協力を感謝するという一言で片附けるとは何事であるか」と。

激論は数刻に及び、ようやくポラニ教授は折れて再度書き直しを行ったが、それにはその冒頭に「この研究は堀内博士の発想を展開したものである」と前置きがしてあった。これならよかろうと始めて先生は同意を示し、二人は握手を交わしたということである。「ポラニといえば日本では神様のように思われているが、俺は彼とブルーダーハイトをトリンケン(兄弟の杯を交わす)して来たよ」と堀内先生は豪快に笑った。

 

 これはおそらく、反応熱と活性化エネルギーの比例関係として知られる「堀内-ポランニー則」の発見ことだろう。マイケルとしては、問題設定の枠組みは自分が作ったという自負があったのではないか。