暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

専門家の有責感

1980年代には欧米含めほぼ全世界的に使用禁止となったDDTについて、その結果、年間100万人以上の死者(感染者は5億人!!!、特にアフリカ)を出し続けていたことに対する、専門家としての率直な無念感と責任感を吐露している中西さん。

http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak386_390.html#zakkan388

こうした「自分で引き受ける」ことの意義について、内田先生が2007/06/08の日記でまたもや卓見を示している。

http://blog.tatsuru.com/2007/06/08_1023.php

システムは放っておけばかならずどこかで不具合を起こす。
この不具合がもたらす被害を限定するためには二つの方法がある。
「対症」と「予防」である。
「責任を徹底追求して、二度とこのような不祥事が起こらないようなシステムを構築します」という考え方を「対症的」という。
「二度とこのような不祥事が起こらないシステム」などというものは人間には構築できない。
不祥事を阻止できるのはシステムではなくて、その中で働く固有名をもった個人だけだからである。
ここにミスがある。誰が犯したミスだか知らないけれど、放置しておくといずれ大きな災厄を招きかねない。だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。
そう考えるのが「予防」的な発想である。

「それは私の仕事じゃない」
これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。
たしかに「予防」は仕事をふやす。
場合によっては「自分のミスではないミスの責任者」というかたちでネガティヴな評価を受けることもある。
けれども、それがいちばん効率の良いシステム防禦策である。
「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフは未然に防ぐことができる。

自分の専門分野についてこのような有責感を保持する人間でありたいと思う。


DDT規制の問題点については、Wikipediaでも明記されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/DDT