暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

七分間

 若きヒロインの性を赤裸に描き、長らく発禁となっていた『七分間』が、遂にアメリカで出版された。が、その直後に一書店主が猥褻文書販売の廉で逮捕され、さらには、折から婦女暴行事件を起こした若者が、犯行は『七分間』に刺激されたものと自供する。あくまで無実を主張する出版責任者サンフォードは、友人の弁護士バレットに弁護を依頼。バレットは自ら『七分間』の真価を確認した後、強力な後盾を擁する地方検事への挑戦を決意した!

七分間〈上・下〉 (1982年) (ハヤカワ文庫―NV)

七分間〈上・下〉 (1982年) (ハヤカワ文庫―NV)

 

 渡部昇一がオススメしていたのでamazonでポチって一気読み。大変面白かった。

 Irving Wallaceという最も筆力のある現代アメリカの推理作家が、ポルノ問題をテーマにして傑作を書いた。その題名はThe Seven Minutesいうのであるが、実際この小説を読みはじめて三分の一ぐらいまで行ったら、それを手から離すことが難しくなる。ウォレスの小説はいつもそんな具合なので、忙しい仕事を控えた時には手を出さないことにしているのであるが、ついうっかりThe Seven Minutesに手を出したため、例によって仕事に支障をきたしてしまった。
 これは推理小説であるから筋をのべるわけにはいかないが、ポルノ小説事件が起きるとき、それを問題にする側はどういう意図を持っているものであるか。出版社はどういう反応を示すか。また実際の裁判では検事側や弁護人側はどのようにして陪審員を動かそうと努力するか。その虚々実々がうかがえて、アメリカの社会の理解を深める意味でも面白い。もちろん著者のウォレスはポルノに関する古今のエピソードを集めてそれを弁護士に使わせているから、それだけでも大いに参考になる。

 

ことば・文化・教育―アングロサクソン文明の周辺

ことば・文化・教育―アングロサクソン文明の周辺

 

 『弁護士マイク・バレット』としてシリーズ化しても良いぐらいの魅力的な登場人物たちで、日本語訳も見事。訳者の村上博基のあとがきによると、アーヴィングはハイスクール時代からその文才を発揮しており、第二次世界大戦期には空軍に所属し、『きみの敵、日本を知ろう』という戦時教育映画制作にたずさわったりしたようだ。

渡部昇一は本書を「四畳半襖の下張」事件最高裁判決に絡めて引用している。

四畳半の何とかという作品がポルノであるという判決が下ったようである。実物を読んでいないから何とも言えないが、やはりこの裁判は時代遅れなのではないかと思う。

 『四畳半……』の弁護士はこの本のことを知っていたかどうか。ここに出てくる弁護士の用いた資料を巧みに使ったら、案外、無罪の判決が出たかも知れないのだが、などとも思うのである。

『四畳半……』の判決を下した最高裁判事 栗本一夫は栗本先生の父親憲法21条と刑法175条は矛盾しないとした。一方、「タブーは禁じられるからこそタブーであり、それを侵犯し、人間の精神が燃え上がるために設定されている」というのが栗本先生の言で、父親の判決は経済人類学的にも正しいとしている。

ある社会で何を猥雑とし禁書とするかは法社会学的に興味深いテーマだ。アーヴィングは本書でローマ教皇庁禁書目録を披露している。フロベール、パルザック、ダヌンツィオ、デュマなどの作品が不道徳の故に含まれているし、教義的によくないとして、ロレンス・スターンの『センチメンタル・ジャーニィ』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をはじめ、ベルグソン、クローチェ、スピノザ、カント、ブラ、サルトルなども入っている。宗教的にも道徳的によくないとされているアンドン・ジッドや、英文学ではリチャードソンの『パメラ』もある。渡部昇一は、

 いずれも今の日本の学生が読んだら「よく勉強した」とほめられるものばかりであり、道徳基準の相対性を示す好例である。

 と指摘する。確かにね。笑

裁判終了後、本事案で敵対し異なる真実を主張していた地方検事にバレットは次のように語る。

たたかうべき真のたたかい、それは性交描写や四文字語の使用に対してではなく、黒人を<ニガー>よばわりしたり、意見の合わぬ相手に<アカ>のレッテルをはるような猥褻行為にたいしてだ。真に猥褻なるもの、それは相手が自分とちがうから、あるいはちがう思想を持つからといって、棍棒で追いまわしたり迫害したりすることであり・・・偽善と不正直をウィンクひとつで通すこと、物質的目標を人の生きがいとすること、豊かなる国の貧困に目をつむること、星条旗と父祖と合衆国憲法にリップ・サービスをしながら、不正義不平等を許すことだ。これが私の敵とする猥褻行為だ。

 

KUNILABO バタイユ入門(1)

前回は国立だったけど、今回は渋谷。全4回の予定。全て平日。

【授業予定】

第1回 『内的体験』「不可能なもの」について考える

第2回 『呪われた部分』経済と贈与の関係について考える

第3回 『宗教の理論』現代社会における「聖なるもの」を考える

第4回 『エロティシズム』禁止と侵犯からエロティシズムを考える

『内的体験』は事前にざっと流し読み。ロンドンでベルクソンに会ったら「小心で小男で」落胆したって書いてあって、笑った。

佐々木先生は付箋をたくさん貼った原書を持ち込んでた。研究者はさすがだなー。 

で内容はというと、真面目で普通。第1回終了後の生徒とのtwitterのやり取りでは、

昨日は「入門」の割には小難しい話になってしまったので、次回はもう少し分かりやすい話にしようと思います。 

とのことだが、そんなに小難しいとは思わなかった。

バタイユの『内的体験』はそこそこ分厚い本だが、同じところをぐるぐる逡巡していて明晰とは言いがたい著作だ。佐々木先生によると「敢えてそういう表現をしている」とのこと。なぜなら、ヘーゲルが完成させたロジカルな形而上学の体系では「深淵」「内的体験」に触れることができないからなんだって。

でもそれって栗本風にいえば「ヘーゲルに対する単なるカウンター」でしかなくて、例えば

  • 結婚という制度がキライなので婚姻届は出しません! 

とかたくなに主張して、見えない制度を克服した気になっている幼稚な思考と余り変わらない。そんなカウンターじゃ何も新しい達成はないよね(バタイユの意図はそうじゃないのかもしれないけれど)。

言語的に徹底的に明晰に言い切って言い切り続けて、それでもなおどうしても表現不可能な何物か(=深淵/内的体験)が存在していることをあぶり出す。栗本先生は意識的にそういう戦略を採っていた。

僕らは如何にして深淵に触れえるのか。アルコールやドラッグの力でも借りるのかというとそうじゃない。バタイユによれば「理性の力を借りなければ至りつくことはできない」のが「深淵」であり「暗黒の白熱」だ。前述の栗本戦略を指しているようにも思える。皆ヘーゲルにならないと到達できないのだろうか。ハードルが、高い。

別の個所では「自己が自己を犠牲にするとき」自己と全体の融合が生じ、深淵に一歩近づくと言う。これはどういう状態なのか。

そもそもバタイユが「内的体験」を考え始めたきっかけは、メンタル不調でカウンセリングを受けた際に医者にもらった次の写真だ。

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見るもあさましい凄惨な姿は血で縞模様をなし、一匹の雀蜂のように美しかった。

今では有名なこの写真。受刑者の表情は苦痛と至福の表裏一体にみえる(一説には受刑者はアヘンを吸引させられているという)。供犠。生贄。端的に言って「自己犠牲」「全体との融合」の一例がこれなのだ、きっと。

 

第2回は私の好きな『呪われた部分』。楽しみだ。

 

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

 

 

2016年の12冊

1月 

陰謀と幻想の大アジア

陰謀と幻想の大アジア

 

 とても面白くて、ツラン/ウラルアルタイがらみで何冊か読む。

 第二次世界大戦直後、戦前のアカデミズムを引き継いでいた東大言語学教授服部四郎のもと、言語学を学ぶとは系統論をやること、という時期があったが、それ以後状況が変わった。その変化の大きな要因となったのは、チョムスキー生成文法などの統語論言語学の中心となったことである。通時的研究は共時的研究に駆逐されてしまった。歴史(系統論)ではなく、今の言語を分析するのが言語学の主流となったのである。
 通時的研究から共時的研究へという現在の状況は言語学だけのものではない。私たちは、今のことだけが問題な、平面的な時代にいるのである。そこでは<歴史>が忘れ去られてしまった。

海野弘

 民族的教学の根底をなす惟神道の重要行事が、鹿の肩甲骨と樺の樹皮によって行われるということは、日本民族の故郷が南方であったか北方であったかを断定する上に最も重要な資料であるといわねばなるまい。

白柳秀湖

 

 2月 

ピアジェ晩年に語る

ピアジェ晩年に語る

 

 哲学的反省は問題を立てるための手段であって、問題を解くための手段ではありません。

ピアジェ

3月 

ことばの道―もう一つのシルクロード

ことばの道―もう一つのシルクロード

 

 アッティラAttilaの名は、ゴート語atta《父》に指小接辞 -li(-a)がついてできたものだといわれます。《とっつぁん》といったような呼び名です。

 チンギス・カンのモンゴル来襲以前にスラブの地にやってきたモンゴル語使用の騎馬民族の大集団は史上アヴァール以外にありません。

城田俊

4月   

 今年一番の掘り出し物。ルコント・デュ・ヌイ『人間の運命』、アレキシス・カレル『人間 この未知なるもの』、オーウェンバーフィールド『英語の中の歴史』の3冊を翻訳紹介してくれた渡部昇一に知的に一定以上の信頼をおいていたが、彼の専門分野の著書が未読だった。

・・・人間の精神が時間と空間の制限から解放された世界を自己のうちに持ち、その世界を分節的に明晰に理解し、それに対して分節音による命名を行うことが、とりもなおさず人間の言語ということなのである。

 近代的な言語起源論の正確な出発点は、1771年、すなわち、ドイツのヘルダーが『言語の起源について』という論文を書いた年とするのが妥当である。

 現代の言語学でも、それがヘルダーの系統にあるか、ダーウィンの系統にあるか、を先ず見ることが重要である。

渡部昇一

ヘルダーの系統とは、言語の起源を人間の独特な性質=理性の中に置いたものを指す。一方でダーウィンの系統とは、動物の知力と人間の知力を「質の差ではなく程度の差である」とするもので、知力に質の差がない以上、人間の言葉と動物の間にも本質的差はない、という立場になる。

5月   

英語語源の素描

英語語源の素描

 

 -ly,-like(lic)は=body-having すなわち、 "~の体(テイ)で

渡部昇一

 6月 

言語という名の奇跡

言語という名の奇跡

 

 たとえば、自由に上に伸びる木は、重力の法則を越えてのびるというまさにそこの点で、この法則に依存している。つまり木は重力法則にしたがって垂直に幹を伸ばし、その法則の不変性に頼って着実に伸びるのである。・・・有機的な組織構造を持つ植物に見られる自由は、機械的法則を受けない自由というよりも、機械的法則によって得られる自由といえる。

ウィルソン

7月 

 8月 

 夏のボーナスで全集を買った。まだまだ積読

烏孫の二字は漢代に a-sien と発音し、突厥の姓、阿史那と同語ではなかろうか。阿史那の名はチュルク語 asin の訛で、跳ね越えるの義である。烏孫と阿史那とが同名だと仮定すれば、烏孫はasinの音訳とみて差し支えがないようである。

白鳥庫吉


9月 

古代日本領土の起原―日本領土の発祥的形態に関する研究

古代日本領土の起原―日本領土の発祥的形態に関する研究

 

 もし、記紀が国家公文書として、権利義務関係を記載したものであるとすれば、そしてそれが無文字時代からの記憶官吏による「うけ伝え」によって継承されてきたものを、新たに「文字」によって登録し直したものであるとすれば、その内容は、外見上の神話やお伽話的な形式にも拘らず、その裏面に必ず何らかの法的意味をもつ具体的な真実の意味内容を包蔵していなければならない。

単純な歴史記録という方法が行なわれた中国史書と、その点で日本の無文字時代からの国家の所轄官庁による伝承内容とを同一視することは全く不可能である。

記紀は内容においても記は完全秘密文書であり、保管の方法も機密文書としての取扱いをうけたが、紀は半公開・半機密文書であり、かつ政府が常時使用すべき騰本または台帳(原簿)のごときものであったのである。

桜井光

10月 

松井孝典は25年前の栗本慎一郎『パンツを捨てるサル』の背中がやっと見えてきた、ぐらいの感じ。 (1)天体衝突は確かに地球上の生物の大規模絶滅を説明するが、ネメシス説のような周期性/規則性に届いていないのが残念。地球が宇宙に開いた系の一部であることの実証を進めていてとても面白いし、斉一ではない非連続性に注目しているのも共感できる。(2)生命の起源という観点から「赤い雨」に着目しているのもこの一環。地球は閉鎖系ではなく宇宙に開かれているという至極当たり前の話の帰結。(3)栗本がスゴいのは、大規模絶滅以外の生命進化のプロセスに、この開放系を組み込んで考えていること。そう、隕石に付随して地球上にばらまかれるウイルスがどう働くか、という試論だ。松井先生の研究の結果、案外、インフルエンザウイルスが毎年流星雨に紛れて地球各地に飛来し流行していると言われても驚かない。水鳥や渡り鳥が発生源だとも言われているが、それは結果だけ見てるんじゃなかろか。

 

11月 

12月 

ふしぎの国のバード 1巻 (ビームコミックス)

ふしぎの国のバード 1巻 (ビームコミックス)

 

 誕生日のプレゼント。

 

 

 

オグズ族 高車丁零

  

シルクロードの経済人類学―日本とキルギスを繋ぐ文化の謎

シルクロードの経済人類学―日本とキルギスを繋ぐ文化の謎

 

 P.107

オグズ族は、丁零、高車やその後の鉄勒を含むグループで、数的にはチュルク族の中心だったと思われるが、そこには突厥を建国したアシナ氏は入っていない。ところが定説では丁零、鉄勒も突厥もともにチュルクの音訳だと言ってきた。これは明らかにおかしい。

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有用性と欲望のエコノミー

国立人文研究所主催のKUNILABO2016年度4月期講座『エコノミーとは何か:概念から学ぶ哲学史』全4回(4/5/6/7月,月一回)が終了した。講師は佐々木雄大先生。

researchmap.jp

玉川大学/亜細亜大学の非常勤講師だ。実は以前からTwitterで「エコノミーの概念史」をやっていることは承知していて(フォロー済)、いつだったか「自分の関心を突き詰めていくと栗本慎一郎になるんだよな」といった主旨のことをつぶやいていた。これは受講しないわけにはいかない。

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下町の祭礼文化

神道国際学会 定期刊行物『神道フォーラム』第51号(←リンク)より

 6月9日、横浜国大での講義には、栗本氏が登場。・・・日本の祭礼や文化の歴史的な起源、特質などについて学生にレクチャーした。

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