有用性と欲望のエコノミー
国立人文研究所主催のKUNILABO2016年度4月期講座『エコノミーとは何か:概念から学ぶ哲学史』全4回(4/5/6/7月,月一回)が終了した。講師は佐々木雄大先生。
玉川大学/亜細亜大学の非常勤講師だ。実は以前からTwitterで「エコノミーの概念史」をやっていることは承知していて(フォロー済)、いつだったか「自分の関心を突き詰めていくと栗本慎一郎になるんだよな」といった主旨のことをつぶやいていた。これは受講しないわけにはいかない。
以下、受講結果を簡単に整理して備忘録とする。なお、講義の詳細版となる論文は下記書籍に収録されている(深貝論文が面白かった)。
- 作者: 佐々木雄大,松本卓也,トマ・ピケティ,エマニュエル・サエズ,ジャン=リュック・ナンシー,ジョルジョ・アガンベン,土橋茂樹,岡本源太,星野太,隠岐さや香,板東洋介,深貝保則,西亮太,斎藤幸平,メランベルジェ眞紀,柿並良佑,荒谷大輔,河野一紀,小林芳樹,向井雅明
- 出版社/メーカー: 堀之内出版
- 発売日: 2015/01/31
- メディア: 単行本
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(1)講義のスタイル
古代ギリシャからストア派、教父哲学にスコラのトマス、百科全書からスミスまで、各時代で「エコノミー」という言葉をどう捉えていたかを解説していく。毎回A3用紙4枚ほどのレジュメが渡され、そのほとんどは当該原書の抜き書き和訳と出典。生徒が交互にレジュメを読み合わせ、先生が解説を加えていくというスタイルには誠実さを感じた(原典に忠実)。
(2)佐々木先生は何を言いたかったのか
歴史を通じて、エコノミーとは有用性(目的ー手段)の形式として認識されてきたのだ、ということに尽きる。家政とは目的のために家の道具を配置すること、神の世界統治とは目的-手段連関を歴史に繰り延べること、有機体は合目的的に体組織を編成すること、それがエコノミーなのだと。
(3)感想
- エコノミーとは有用性だ、と言われた時点でポランニー派経済人類学を学ぶ私は拒否反応が出てしまう。手段-目的関係という論理的性格に人間の経済を還元する「形式的経済学」は、我々が当初から批判している「近代市場社会のみの認識」なのだから。
- ではエコノミーとは何なのか。社会を維持し生存するために必要な財の流通プロセスを系として統一化し安定化する=制度化するのが人間の社会における経済である、というのがポランニーが主張するところだ。
- 実際、レジュメの原典を読む限りでは各時代の論者に「有用性」が強く意識されていたとは思えない。どちらかというと、自分たち人間を部分として含みこむ全体システム/全体秩序があるのだというという予感・確信を巡ってエコノミー(オイコノミア)が語られている。例えば、
クセノフォン:宇宙の運営
森羅万象を整然と統一して維持する神・・・これを経営している姿は我々には見えぬのだ。
新約聖書:秘儀のオイコノミア
一切を創造し給うた神の中に世のはじめ以来ずっと隠されてきた秘儀の摂理がどういうものであるか・・・
トマス:配置
二つのことが摂理の配慮には属している。すなわち、ひとつには、秩序の理念であり、摂理や配置と呼ばれる。もうひとつは、秩序の実行であり、統宰と呼ばれる。前者は永遠的なものであり、後者は時間的なものである。
(4)学問的に建設的な議論につながるところは何なの?
社会は生命であり生理がある、というのが栗本派経済人類学の主張だ。栗本先生の言説は「学習可能という意味でのアカデミズムを欠く名人芸」なのでw、『経済人類学』が世に出て35年以上経過するにもかかわらず具体的な進展が栗本個人の成果以外に見当たらないという困った状況にはあるが、次の論点はありうるだろう。
- キリスト教世界(西欧)=ヨーロッパ系アーリア人だけではなく、イラン系アーリア人やゾロアスター教世界(ペルシャ)などにおけるオイコノミア相当語の使われ方なども講義に含めると、人類史全般における経済の意味を紐解くという意味で概念史(心性史)の知的興奮が増す(西欧形而上学の土台の上だけで進めるのはもう無理なのではなかろうか)。青木健先生あたりと共同研究すると面白い成果が出ると思う。
- そのように人類史全体を眺めたとき、人間の社会はハレとケの対立と祝祭的時間空間を有しており、人間の経済は生産や交換や「有用性」などではなく、結果的に消尽や破壊を目指して行われる全体システムであることが見えてくるはずである。バタイユの普遍経済を視野に入れている佐々木先生は、(未読だが)
- 作者: マルクス・ガブリエル,浅沼光樹,阿部ふく子,池松辰男,大河内泰樹,加藤紫苑,城戸淳,桑原俊介,下田和宣,多田圭介,中川明才,中島新,山田有希子,伊澤高志,佐々木雄大,坂東洋介,宮野真生子,村田右富実,山本芳久,三重野清顕
- 出版社/メーカー: 堀之内出版
- 発売日: 2015/12/10
- メディア: 単行本
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第2号では『タブーは破られるためにある――エロティシズムにおける禁止と侵犯』という論文を書いているようだ。エコノミーの2元性とその根底に横たわる欲望(禁忌の侵犯)にまで手が届くのかもしれない。KUNILABO次回講座でバタイユやるなら参加しよう。
- 人間の社会の生理の一つがエコノミーだとして、エコノミーが人間社会の全体システムとして制度化される創発プロセスは実はまだ我々には全く不可視だ。例えば、個人間の互酬行為が集積されてもエコノミー(統合形態)としての互酬は現れない。部分の総和は全体にはならないし、まずもって互酬には対称的な親族集団のシステムが前提として必要だ。再分配についていえば王権のような中心が社会に成立していることが必要だし、交換であれば価格決定市場が必要になる。部分たる社会成員の表層上の意識では習俗や習慣に従っているだけの行為が全体システムとして制度化されて財の流通反復を構造化してしまうこの不可思議。全体システムに組み込まれない「有用ではない部分」はここで排除されることになる。もし有用性をキーワードに今後も研究を進めるならば、システム論としてのマイケルの層の理論を参照することになるに違いない。
以上