届いたのだ。
- 作者: 栗本慎一郎
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 1982/05
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あとがきより。
記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の分立を指摘する記号論の意味は、言語がそれ自体限定的であるがゆえに、諸記号内容の示差的対立の関係の体系を作り出すことによって辛うじて何物かを表現しているところを見とることであった。つまり、言語は諸記号内容の示差的対立の中にようやく人間存在の発したシグナルをほのめかすことができる程度の制度であるということだ。ともあれ、言語は、ことに文字による表記はきわめて限定された、ある意味では消極的な力しか持っていない。かつまた、それゆえにこそ言語のみが、あるいは言語そのものが思想になる。なぜなら思想とはそのように限定された力しか持たない道具を通じて、人間存在の奥底を表現し伝達しようというシステマティックな試みだというほかないからである。
示差的、とは何か。「大きい」の定義(含意、前提されるの)は「小さくない」。「小さい」の定義(含意、前提されるの)は「大きくない」。このように実体に基づいて決まることではなく、否定の言葉でしか定義できないことが「示差的」だということになる。「いま語ろうとするその言葉が、何(手持ちの概念)でないか」でしか語ることができないようなこと。それが示差。
「リンゴ」は「リンゴでないもの」との対立関係の中で定義され位置づけられる。しかし当然その対立関係はクリアカットで明確な線引きができるはずもなく、グレーで曖昧で両義的な領域を残さざるをえない。分節できない領域。非決定に残された領域。そこはどのようにして決定されうるのか。これは暗黙知の階層的言語論のポイントの一つだ。