暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

結局ニュートラルに戻っただけじゃ・・・

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

第1章 「人間は自由だ」という虚構
第2章 こうして人間はつくられた
第3章 教育の「自由」の不自由
第4章 「気短な人間」はやめよう

広島出張の行き帰りの飛行機内とバス内で読了。

著者の議論は常に、一方向からの固定したものの見方を拒絶する。ある方向に傾いている議論をニュートラルに戻したい、戻って再検討するべきだと訴えかける。その視線は、80年代ニューアカ時代の価値相対主義の閉塞を懐かしさとともに想起させる。結局、主要な議論の各場面で、一体どのような価値観に基づいて意思決定するべきなのか。それを巡って僕らは90年代・00年代の20年間を過ごしてきたはずだ。

ゆとり教育の議論などにおいて特に顕著に現れる、自然で生得的に「自由な主体」「自己決定できる主体」という概念が幻想であること。人為的に形成され教育された主体をこそ、西欧においては「自然な主体」と捉えてきたこと。しかしこの後天的に植えつけられる価値観が何に基づくべきか(個人主義?共同体?)については判断を留保し、「気短に」結論は出さないようにしよう・・・・

本書の内容を力技で要約すると以上に尽きる。僕はというと、20年前に戻れと言われても、After Youとしか返答できない。特定の価値観を排除するのではなく、複数の「小価値」を構成要素として成立する全体像としての「大価値」が確実に存在し、その「大価値」に従属することで達成される「小価値」というカタチで価値相対主義を克服していける、というのがこの20年間の含意だったのではないのか。

個別の引用は整理されていて大変参考になるが、全体的なメッセージとしては評価☆ひとつ、でした。