暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

懇親性 : conviviality

マイケルに捧げるかのような著書を2冊出している Esther Meek女史。

Longing to Know

Longing to Know

Loving to Know: Introducing Covenant Epistemology

Loving to Know: Introducing Covenant Epistemology

(もちろん、どちらもkindleに落として愛読書の棚の中にある) 

彼女が2010年に、毎年開催されている(そして僕もいつか参加してみたいと希求してやまない)ポランニ・ソサエティの年次会議の様子を伝えてくれています。

原文:

  http://www.commongroundsonline.org/content/conviviality-why-polanyi-society-may-be-best-scholarly-meeting-attend

訳:

 懇親性:ポランニ・ソサエティは出席に値する最高の学術会議なのかも。

2013年秋の開催要領は次の通り。

http://www.missouriwestern.edu/orgs/polanyi/2013PSProg6-9-13.pdf

センとミハイの神隠し

2009年にシカゴ大学から新版が出たThe Tacit Dimension。

The Tacit Dimension

The Tacit Dimension

そこでは、アマルティア・センが明晰な序文を寄せている。

ということで、訳したのがこちら。

 暗黙の次元 2009年 新版 序文

CCF(the Congress for Cultural Freedom)とマイケル

CCFを通じてマイケルと知り合ったとRaymond Aronは述べているが、ではそのCCFとはどのような活動だったのか。どのような時代背景からCCFが生まれたのか。そしてマイケルはCCFでどのような役割を果たしたのか。

 

ブダペスト工科経済大学には、マイケルの業績をたたえ、 

 Michael Polanyi Liberal Philosophical Association 
 http://www.polanyi.bme.hu/index.php?lang=en 

という活動をする団体があり、 

 POLANYIANA 

という年報を出しています。 

そうそうたる面子が寄稿してますが、2006年にPeter Colemanが書いた小論を翻訳しました。それはCCFとマイケルの関わりをコンパクトに手際よくまとめたものです。彼はオーストラリア出身のジャーナリストで、冷戦時の知識人の活動に詳しい。 

 

原文はこちら。

http://www.polanyi.bme.hu/folyoirat/2006/2006_04_Peter_Coleman.pdf

 

では、どうぞ。 

マイケル・ポランニーと文化自由会議についての覚書

 

 

 

 

 

Raymond Aron and Michael Polanyi

レーモン・アロン回想録〈1〉政治の誘惑

レーモン・アロン回想録〈1〉政治の誘惑

二度の大戦をはさんで混迷するヨーロッパの知的・政治的動向を、ジャーナリストとして、あるいは社会学者・政治哲学者として、パリから発信・証言し続けたRaymond Aron。

彼は、The Congress for Cultural freedom を通じてマイケルと親交を深めていった。

いま、活動家時代のことで思い出すのは「文化の自由のための会議」のことだ。・・・会議を通じて知り合った傑出した知識人の中で、私が最も尊敬し、また愛着を感じる人物はマイケル・ポランニーだ。”硬派”の理科系出身、それもノーベル賞を受けるはずの物理化学者だったが、ある日突然転向を決意し、大学に担当の講座の変更を申請して哲学者になった、というきわめて珍しい経歴の持ち主だった。知識より英知を、新知識を蓄積するより、人間は自分を知らなければならない、とポランニーは経済と科学的研究の自由についての著作を発表した。とくに『個人的知識』 は力作だが、かぎられた範囲で評価されてはいるものの、おおかたは無視されてしまっている。哲学あるいは宗教的結論を言外に含むポランニーの認識論は、論理実証主義分析哲学が中心であった当時の英米系のどの学派からみても埒外だった。ポランニーにおける実在の位相表象、その反還元主義、真理を受け入れるにあたって想定される個人レベルでの誓約に彼が与えていた意味は、その著作の行間に信仰に至る道を読み取らせるものだった。その信仰とは霊、おそらく精霊へのそれだった。アイザイア・バーリンがポランニーのたどった道程について、皮肉な指摘をするのを聞いたことがある。ハンガリーの連中は妙だ、たとえばポランニー、偉大な学者だというのにノーベル賞を捨てて、平凡な哲学書を書いている、とバーリンは言った。だが仮にポランニーの哲学が平凡だとして---このことについては証明する必要があるが---、このような判断は、個としての人間という重要な側面を見落としている。

 

 マイケル・ポランニーは、科学的な研究を放棄して、真の自己完成と他者への奉仕を目指した。学者の自由だけではなく。市井の一市民の自由をも擁護することが彼にとってもまたすべての人間にとっても、早晩、誰かが成し遂げる科学的な発見より重要だったのだ。ポランニーにとっての自己完成は、化学者あるいは哲学者として認められることではなく、自己の良心、内心の声に認められることであった。それがポランニーとともに過ごすときを安らかでまた豊かなものにしていた。それは私たちがまさに彼のうちにある魂を感じとれたからだった。彼が優しくこまやかな心遣いをみせたことは、いうまでもない。しかしこうしたことはなにもポランニーに限らず優れた人物なら誰でもそうだ。ポランニーはそれ以上の何かがあった。ただ他人に対して優しいというのではなく、目の前にいる一人の人に対してだけ優しくしている、つまりそうされた相手が彼に全人的な個として認められていると感じさせたのだ。私たちは話し合う機会が比較的多く、二人の間に友情が生まれた、と私は思っている。ポランニーの七十歳の記念論文集に、私は「マックス・ウェーバーとマイケル・ポランニー」と題する一文を寄稿した。喜んでくれたのだと思う。礼状をもらったのを今でも大切に持っている。最後に会ったのは私がオックスフォード大学の名誉博士号を授与されたときだ。授与式で私は雑な講演をした(とくに原稿も書かず、英語で講演した)。ポランニーに劣らず知的で優しい夫人は講演を褒めてくれた。だがマイケルは夫人に同調しなかった。彼の誠実さからすれば妥協は許されなかった。それが友人であればなおさらだった。彼は、世界が発見することができないまでも、求めなければならないことについて語った。彼は、それは神だと言ったと思う。私の知る限りでは、ポランニーは一度もこの言葉を書いてはいない。

 アーロンが触れているマイケルの70歳記念論文集はこちら。

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夏だな、っと。

創発の暗黙知―マイケル・ポランニーその哲学と科学

創発の暗黙知―マイケル・ポランニーその哲学と科学

 

 言語は、 そこに暗黙知が働くから有効なコミュニケーションの手段たりうるのだが、そのことは言語の構成それ自体を検討することからは明らかにされえない。これは、実は、言語学者自体にとってはかなりショッキングな指摘ということにならざるをえない。

 

 (言語によるコミュニケーションは)現実には極めて困難な過程なのであって、ポランニーの言語論上の指摘が別の角度において結果として含意したものは、人間間のコミュニケーションが高度の暗黙的な人格的参加に基づく詳記不能な過程である、ということだったのでもあった。

 

と栗本先生もマイケルもいう。原理的には理解できるが、そのまま自らの議論として先に進めるわけにもいかない。あらゆるものは全て個別で具体的に。言語学の意味論と語用論の知見を自分で理解することで、非決定の境界領域がより明確になるはずだ。

 

   

言語における意味

言語における意味

 

 怠慢で読み進めれてない。

<(_ _)> optical_frog先生。

 

33年という時(とき)

幻想としての経済 (1980年)

幻想としての経済 (1980年)

1980年のあとがき

人が物を書いたり、本を出したりするのはいったいなぜなのだろう。それは、自分の書いたものを通じて、顔も知らないどこかの読み手とコミュニケートできると信じるからであるし、その読み手を通じて社会とコミュニケートできると思うからなのであろう。難解だが、孤絶したといわれる思想家にしても、次々に著書を上梓しようとするについては、読者と交信できると確信しているのでなければならない。・・・だからすべての他者がそのコミュニケートを拒絶すれば、彼や彼女は平然として田舎教師や娼婦で限られた生を終るのである。・・・やはりこの書は私にとって大切な書であるから、希望としてはささやかにでも売れて欲しい。・・・だから、この本で私の考えに少しでも共鳴してくれる人がいたら、是非友人に推薦してくれと照れずに希望するものだし、サインでもなんでもしようと思うものだ。真面目な質問にはどなたであれ、直接筆をとってお答えしよう。

↓ 33年後

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

2013年のあとがき

・・・通説と違う歴史の個別論についてはいちいち通説への批判や否定のための論証は本書では提出していない。・・・大体、歴史学界の知的現状を見るに、頭から否定してやろうと構えている悪意の者どもには正しい証明を出してもわざと否定したり無視したりするだけだからである。・・・こんな連中やその子分といった連中に貴重な紙幅を割いてくどい説明をすることは、本書が基本的にめざしている経済人類学から見た全歴史像を初めて一気通貫的に示すという役割の邪魔になるだけだ。・・・丁寧な論証とやらを本書で出す必要などない。時間と紙の無駄である。・・・本書ではいちいち説得のための説明などしていない。・・・必要なら自分で調べたまえ。調べもせずにただ疑問に思うような人はただ読むのをやめなさい。・・・知性の低い者に、あえて説得の時間や紙幅を割くのは全く意味がない。・・・こういう頭と性格が目いっぱいに低劣な連中との議論など無意味である。・・・というわけだから、経済人類学の後進にチラとでもなろうと思わない者には一行たりとも読んでもらわなくてよいのが本書である。・・・そういう意味で、この本のタイトルを「人の目につきやすいものに」という出版社とはあまり共感できなくて少し論争した。ふと目についたから読んでみたという読者には本書は向いていない。・・・夢の先は墓場で見続けることにしよう。本書について人と語りたくば、半村良さんやフランシーヌさん、そして坂口安吾さんと語ろう。

 

 

 

 

 

 

 

2つのP.K.

 左が今まで読んでたもの。右が今回購入したもの。 

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amazonで見て「表紙違うなぁ、何か追補増補修正が入っているのかなぁ。」とずーーっと気になってました。

個人的知識―脱批判哲学をめざして

個人的知識―脱批判哲学をめざして

で、今日、買いました。

6刷でした(既存の手持ちは1刷)。

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結論。

まっっったく変更なし。1文1語たりとも追加なし。ページ数も完全一致。

表紙がハードカバーからソフトカバーになり、ややコンパクトになっただけ(読みやすくなったけど)。中身のページは大きさも変わらず。

増刷はありがたいけれど、もう少し手を加えてもいいんじゃないかな、ハーベストさん。

15年経過して変更なしかぁ。。。

この辺が追補されてるかも、と、期待した私がバカでした。版が変わらないとそれはないのか。。。