読書:戦中の意思決定システム
戦中戦後のことはなんとなく知ってるような気になっているだけだったな、俺。
瀬島龍三という個人を縦糸に、日本的「空気」が醸成される様子がよくわかる。
お薦め。
東アジア各国への戦後補償スーキムの中で商社が焼け太りしていく様子も興味深い。
<陸軍の意思決定権が課長級に降りる>
皇道派青年将校らが決起した軍事クーデター(1936年2.26事件)は、内大臣斎藤実や蔵相高橋是清ら政府要人を暗殺、日本中を震え上がらせた。この時、陸軍上層部はすっかり自信を喪失していた。ある将軍は青年将校が自分を殺しに来たと思い、門を閉じ、部屋に逃げ込むようなありさまで、弱腰の陸軍上層部に事件を処理する力はなく、中堅幕僚が主導権を握った。
1939年8月、独ソ不可侵条約締結で平沼駄一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出し退陣した。陸軍省の国会対策の責任者だった軍務課長の有末精三は、後継に陸軍大将の阿部信行を担ぎ、阿部内閣を誕生させた。「有末課長の動きは昭和天皇の耳にまで入り、天皇が不快感を表したほどだった。
連鎖的に起きた陸軍の権力下降。筒井はその背景の一つに日本特有の稟議制があると指摘する。「陸軍の意思決定システムが米国のようなトップダウンでなく稟議制なんです。課長より下の参謀が立案し、トップにもみ上がっていく。ある意味で意思決定に平等主義的な要素が強いんです」
稟議制は戦後の今も官庁などで一般的に採用されている意思決定システムだ。上層部の決定を一元的に下に降ろすやり方ではないから、下が結束して何かやろうとすると止めにくい。
<大本営命令>
天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する。作戦部長、参謀総長島の決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令される。「統帥権(軍の最高指揮権)独立」の建前から内閣や議会は直接関与できず、天皇が参謀本部の原案を拒否することもまずない。
「しかし参謀総長にしてみれば、自分が上奏して陛下の裁可をもらったガ島の奪回作戦だからね。後に引けない苦しみがあった。陛下の方も下から撤退を言ってこない限り、自分から言えない。おかしなことだが、当時はだれも撤退を言い出せない仕組みになっていた」
<731部隊と東条>
1944年4月下旬、東京・市谷にある陸軍省の大臣室。東条英機の怒りはすさまじかった。「けしからん。 おれは陸軍大臣であり総理であり参謀総長だ。すべてのことについてこれ以上の責任者はおらん。そのおれに黙ってやるとは」東条が激怒したのは陸軍省医務局長、神林浩の報告などから、七三一部隊による細菌戦計画が進行しているのが分かった時だ。 「参謀本部作戦課は東条さんに内緒でシドニーやミッドウェー、ハワイなどにペスト菌攻撃を行おうと計画していた。 それが東条さんに知られてしまったんだ」
米軍は既に南太平洋を制圧し、日本軍の中部太平洋の拠点サイバン島に迫っていた。作戦課は戦局転換のため米軍などへの細菌攻撃を計画した。だが毒ガス使用に反対した天皇は細菌兵器も許さない見通しが強かった。作戦課は陸軍省の医務局と連携し、天軍隊皇や東条に内緒で準備を進めた。
当時の作戦課側の発言が元医事課長、大塚文郎の備忘録に残っている。「ガス(毒ガス)陛下は不可で許されぬ。局長(医務局長)は上奏せぬが可と言はれた、参本(参謀本部)は上奏せぬ事に決定した……総理大臣にも言わぬ方が可」
東条はなぜ細菌兵器使用に否定的になったのか。その謎を解くカギは1942年4月、ドウリットル米軍中佐らのB25爆撃機による本土空襲だ。乗員8人が日本側捕虜となり、うち2人が銃殺された。「東条さんは処刑は誤りだったと後で思うようになり、それから国際法遵守の考えに変わった。その背景には天皇の姿勢があったと思う。東条さんは天皇の考えを忠実に守ろうとする人だったから」
<ソ連参戦は織り込み済み>
1945年5月、大本営はソ連参戦時に関東軍を南満州の山岳地帯・通化に撤退させ、満州の残り四分の三を放棄する作戦計画を決めた。持久戦に持ち込み、ソ連をてこずらせ、本土決戦を有利にするのが目的だ。国境地帯の開拓団への避難勧告はなかった。
元関東軍作戦班長、草地貞吾が言う。「(ソ連の対日参戦までは)ソ連軍を刺激しないための『静誰確保』が関東軍に与えられた任務だった。国境近くの軍や開拓団がいなくなり、ソ連が無血進撃してきたら大変だからね。悪く言えば案山子の役割をして、国境地帯でのこちらの存在を誇示する必要があった」
ソ連参戦4日目の12日、関東軍総司令部は通化に後退した。各地で戦闘が続く中、避難民の多くは軍の保護なしに広大な原野に取り残された。