暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

祝!師弟共演

毎週日曜日21:00のラジオ番組「栗本慎一郎の社会と健康を語る」にて、2週連続で大和雅之さんをゲストに迎え、

  • 再生医療からみた、人間とは(生命とは)何か

というテーマで話が進められた。大和さんは現在、東京女子医科大で再生医療の研究を進めている。Twitterでフォローさせてもらっているが、海外への出張が多く忙しそうだ。

ちなみに東京女子医科大と言えば、クラーゲスの翻訳で有名な千谷七郎がいたところで、三木成夫は不眠症で千谷にお世話になっている。栗本先生がラジオ番組で共演している川嶋朗も、東京女子医科大付属の青山自然医療研究所クリニック所長だ。片方で最先端の生命科学、片方で放射線ホルミシスや温感療法などの境界治療。懐の深い大学だ。

11月24日と12月1日の2週にわたって放送されたので、師弟共演の記念にポイントを記録しておくとともに、私見を少しだけ。

==11/24==============

大:中学校3年の3月に『現代思想』で栗本先生の原稿を初めて読んでファンになった。高校の時に世田谷の区民会館で先生が講演(経済はオイコスとノモスだ、みたいな話)をした際に聞きに行って、楽屋で著書にサインをもらった。これが先生との出会い。33年とか34年前の話。

大:iPS細胞を使った臨床はまだまだ先。私が研究している再生医療は、患者さん自身の細胞を使って治そうということで細胞シートを使い、実際に治療している。

栗:私は脳梗塞で脳細胞の一部を失ったが、再生医療で治して欲しいとは思わないね。

大:(苦笑)研究している研究者はいるが、従来から、脳細胞と心臓は再生しないと言われていた。これには理由があって、脳細胞で再生がガンガン起こると、記憶やスキルや言語などの組み替えが起こり不都合。心筋なども再生が起こると不整脈となる。これらのような器官の一度造られた回路を再生するのは、技術的に可能だとしても慎重に行くべき。

栗:脳梗塞の問題に限らず、現時点で世間は再生医療に期待しすぎ。手法を確立するためのトライアルが出来ない。今回失敗したから次頑張りましょう、という訳にはいかない。

大:現時点で実際に再生医療を行ったことのある箇所としては、角膜・皮膚・食道・歯肉、軟骨など。

栗:細胞シートというのは、細胞同士を単純にくっつけたものなのか?

大:再生医療で使う細胞シートとは、細胞単体ではなく、複数の細胞が一定の関係性を持ってシートを作り上げている(と思われる)。細胞単体には見られないある秩序を備えているのが細胞シート。ばらばらの細胞を移植しても何も起きない。器官を構成する「組織」としての細胞シートだからこそ再生が起きる。

栗:細胞をあたかも機械の部品のように入れ替えればOKだという考えは、(私の)経済人類学的思考ではない。細胞と細胞の間の「関係性」が重要で、この「関係性」が「部品」になる。人間の生体の中では、関係性として成立している。壊れたからポンッと入れ替えれば良いというものではない。

栗:再生医療と不死。人間の設計という点からは、最大150年ぐらいは寿命が延ばせそう。一方、人間がどのぐらいまで生きられるかというのは哲学的な問題で、そもそも無意味だと思う。

大:骨髄移植や臓器移植を受けた患者は、移植後に性格が変わるということが結構ある。

栗:再生医療を受けた人間が150歳まで生きたとして、Aさんとして150歳まで生きたのか、全く別の性格のBさんに途中から変わったのか、はたまた全く別の生き物として150年生きたことになるのか。人が何歳まで生きるかというのは、ものの考え方とか価値観の基本が変わらなければセーフだが、私のカラダを使っていても「他人」である可能性の方が高い。同一性を保持しようと思えば、せいぜい120年から150年が限度ではないか。性格も変わって、感覚も変わって、それで150歳まで生きたいですか、皆さん?

==12/01==============

栗:再生医療から人間とは何かを語ろう。30分のラジオ番組で決めちゃうのは大変なだが。笑

栗:私は神道国際学会の会長をしているが「神とは何か」のほうがよっぽどわかりやすい。「人間と何か」。難しい問題。結論から先に言えば、ヒトの生命というのは社会や自然の中の関係性の中で浮いていてかつ固定されている、そういったもの。

大:分子生物学や生化学をやると、判らなかったことがいろいろ判って面白いが、生き物が対象だったはずなのに生命らしさがだんだんなくなってくる。では、その生命らしさとは何か。再生医療で面白いのは、分解するのではなく、ある種組み立てているということ。このほうがより生命を理解できるのではないか。

栗:分解するより組み立てる方が生命の本質に近づける。その通りだと思う。飼ってる猫がたまに死ぬ。化け猫でも会いたいと思うけれど、ペットのクローンが戻ってきても、同じ顔・同じ爪・同じ肉球だろうが、同じ生命が帰ってきたとはたぶん思えない。

大:エピジェネティックスということが最近生命科学で言われている。遺伝子が全てならクローンは同じ生命だが、遺伝子に還元されないものが確かに有り、それが生命。

栗:脳が死んでいれば生命として死んでいる、私はそう考える。生きているとは、環境や社会とコミュニケーションをしてどんどん変わっていく。そういうこと。ただ食べて排泄すると言うことではない。30歳、50歳といろいろな経験をし(技能などが)開発されるが、それは遺伝子にどこかで転写されているのか。アーサー・ケストラーはそれが「ある」と言ったが、まぁ、あるとしてもほんのわずか。これでは、クローンが同じ生命であるとはいえない。

大:ジャック・モノーのようにノーベル賞を受賞した科学者が哲学に踏み込むような本を書いていた。1960~70年代はそういう学者がいたが、それ以降、理科系でそうした展開をした学者は皆無。一方で、Googleが出している世界で最も読まれた本100冊には、1位はトマス・クーンのパラダイムの本だが、マイケル・ポランニーの本が数冊入っている。日本では理系の学者が科学哲学を読むなんてことは滅多に無いが、アメリカでは少なからずいる。

栗:私なんかは、再生医療がどんどん進んで、臓器等のパーツが様々に入れ替えられていくなかで、一般人含めてイヤでも「同じ人間か」「同じ生命か」ということを考えざるを得なくなってくると思うし、それで良い。

大:生命とは何か。人類誕生以来の問いであり、様々な答えがある。ギリシャ時代のタレスは「代謝だ」と言ったし、産業革命時代は「子供を生むこと(re-production)」だと言った。今は「生命とは情報だ」という言われ方もする。皆、時代的制限を受けた回答しかできていない。もう少し時代を超えた回答をしていると私が「信じて」いるのはマイケル・ポランニーで、感覚や精神、本能や進化は全て同じ枠組みで考えるべきだ、というものだ。

栗:既に言っていることだが、私個人について言うと、ときどき結論が「外から」来ているような気がする。いわゆるインスピレーションや霊感というものだが、これが遺伝子で解明できると云う人が居たら、まぁ「勉強してよ」と。魂とか心の問題に触れない学者。関心はあるがアブナイ領域だと思って避けている面がある。(学者を長くやってきて)もう一つ考えられるのは、非常にシンプルな結論、そう、例えば「他の誰かの指令によって生かされている」という結論が出たら怖い、そう思ってるんじゃないか。地球人は火星人の指令で生きている、そんなことが判ってしまったらなんか気分がわるいじゃないか。そういうことがあるんだと私は思う。難しい問題だから遠ざけているという側面と、単純で怖い結論が出そうだからという側面。

大:人間にとって死とはなにか。物理化学で考えると、死体でも直後には細胞が数億個は活動している。これでは何がなんだかわからない。境界例はあるにしても、反応の有無、コミュニケーションの有無という、ある種チューリング・テスト的なものが判断基準にならざるを得ないのでは。

栗:生命の基本は、ある関係に対して反応すると言うことだと思う。この反応がばらばらでは駄目。反応のシステムが重要。

大:哲学者を研究するのが哲学ではない。それは「哲学」学。本当に生命とは何かを考えようとすれば、「哲学」学をやるよりは、生命科学や再生医療に進む方がずっと「哲学」できる。

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大変に面白かったが、話の中味は「生命とは何か」というよりも、「個体」や「同一性」とは何か、という議論だったようにも思う(ボグダーノフを読んでいるような気分になった)。

栗本慎一郎」は、経過する人生の刻の中における生理的かつ心理的な自我の同一性を指し示すが、厳密な意味でこの同一性は保持されない。生理的な身体は3ヶ月で血液は全て入れ替わり、骨や臓器なども分子レベルでは1年で入れ替わる。心理的な自我も幼少期から青年期、壮年期と高齢期では異なる。再生医療を持ち出すまでも無く、我々の「同一性」は日々失われ、再生されている。

議論としては、再生医療・臓器移植がもともとの関係性を維持した全体システムの中に埋め込まれる場合と、パーツの変更が全体システムの関係性そのものを変えてしまう場合とは、分けて考えたほうがよさそうだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

懇親性 : conviviality

マイケルに捧げるかのような著書を2冊出している Esther Meek女史。

Longing to Know

Longing to Know

Loving to Know: Introducing Covenant Epistemology

Loving to Know: Introducing Covenant Epistemology

(もちろん、どちらもkindleに落として愛読書の棚の中にある) 

彼女が2010年に、毎年開催されている(そして僕もいつか参加してみたいと希求してやまない)ポランニ・ソサエティの年次会議の様子を伝えてくれています。

原文:

  http://www.commongroundsonline.org/content/conviviality-why-polanyi-society-may-be-best-scholarly-meeting-attend

訳:

 懇親性:ポランニ・ソサエティは出席に値する最高の学術会議なのかも。

2013年秋の開催要領は次の通り。

http://www.missouriwestern.edu/orgs/polanyi/2013PSProg6-9-13.pdf

センとミハイの神隠し

2009年にシカゴ大学から新版が出たThe Tacit Dimension。

The Tacit Dimension

The Tacit Dimension

そこでは、アマルティア・センが明晰な序文を寄せている。

ということで、訳したのがこちら。

 暗黙の次元 2009年 新版 序文

CCF(the Congress for Cultural Freedom)とマイケル

CCFを通じてマイケルと知り合ったとRaymond Aronは述べているが、ではそのCCFとはどのような活動だったのか。どのような時代背景からCCFが生まれたのか。そしてマイケルはCCFでどのような役割を果たしたのか。

 

ブダペスト工科経済大学には、マイケルの業績をたたえ、 

 Michael Polanyi Liberal Philosophical Association 
 http://www.polanyi.bme.hu/index.php?lang=en 

という活動をする団体があり、 

 POLANYIANA 

という年報を出しています。 

そうそうたる面子が寄稿してますが、2006年にPeter Colemanが書いた小論を翻訳しました。それはCCFとマイケルの関わりをコンパクトに手際よくまとめたものです。彼はオーストラリア出身のジャーナリストで、冷戦時の知識人の活動に詳しい。 

 

原文はこちら。

http://www.polanyi.bme.hu/folyoirat/2006/2006_04_Peter_Coleman.pdf

 

では、どうぞ。 

マイケル・ポランニーと文化自由会議についての覚書

 

 

 

 

 

Raymond Aron and Michael Polanyi

レーモン・アロン回想録〈1〉政治の誘惑

レーモン・アロン回想録〈1〉政治の誘惑

二度の大戦をはさんで混迷するヨーロッパの知的・政治的動向を、ジャーナリストとして、あるいは社会学者・政治哲学者として、パリから発信・証言し続けたRaymond Aron。

彼は、The Congress for Cultural freedom を通じてマイケルと親交を深めていった。

いま、活動家時代のことで思い出すのは「文化の自由のための会議」のことだ。・・・会議を通じて知り合った傑出した知識人の中で、私が最も尊敬し、また愛着を感じる人物はマイケル・ポランニーだ。”硬派”の理科系出身、それもノーベル賞を受けるはずの物理化学者だったが、ある日突然転向を決意し、大学に担当の講座の変更を申請して哲学者になった、というきわめて珍しい経歴の持ち主だった。知識より英知を、新知識を蓄積するより、人間は自分を知らなければならない、とポランニーは経済と科学的研究の自由についての著作を発表した。とくに『個人的知識』 は力作だが、かぎられた範囲で評価されてはいるものの、おおかたは無視されてしまっている。哲学あるいは宗教的結論を言外に含むポランニーの認識論は、論理実証主義分析哲学が中心であった当時の英米系のどの学派からみても埒外だった。ポランニーにおける実在の位相表象、その反還元主義、真理を受け入れるにあたって想定される個人レベルでの誓約に彼が与えていた意味は、その著作の行間に信仰に至る道を読み取らせるものだった。その信仰とは霊、おそらく精霊へのそれだった。アイザイア・バーリンがポランニーのたどった道程について、皮肉な指摘をするのを聞いたことがある。ハンガリーの連中は妙だ、たとえばポランニー、偉大な学者だというのにノーベル賞を捨てて、平凡な哲学書を書いている、とバーリンは言った。だが仮にポランニーの哲学が平凡だとして---このことについては証明する必要があるが---、このような判断は、個としての人間という重要な側面を見落としている。

 

 マイケル・ポランニーは、科学的な研究を放棄して、真の自己完成と他者への奉仕を目指した。学者の自由だけではなく。市井の一市民の自由をも擁護することが彼にとってもまたすべての人間にとっても、早晩、誰かが成し遂げる科学的な発見より重要だったのだ。ポランニーにとっての自己完成は、化学者あるいは哲学者として認められることではなく、自己の良心、内心の声に認められることであった。それがポランニーとともに過ごすときを安らかでまた豊かなものにしていた。それは私たちがまさに彼のうちにある魂を感じとれたからだった。彼が優しくこまやかな心遣いをみせたことは、いうまでもない。しかしこうしたことはなにもポランニーに限らず優れた人物なら誰でもそうだ。ポランニーはそれ以上の何かがあった。ただ他人に対して優しいというのではなく、目の前にいる一人の人に対してだけ優しくしている、つまりそうされた相手が彼に全人的な個として認められていると感じさせたのだ。私たちは話し合う機会が比較的多く、二人の間に友情が生まれた、と私は思っている。ポランニーの七十歳の記念論文集に、私は「マックス・ウェーバーとマイケル・ポランニー」と題する一文を寄稿した。喜んでくれたのだと思う。礼状をもらったのを今でも大切に持っている。最後に会ったのは私がオックスフォード大学の名誉博士号を授与されたときだ。授与式で私は雑な講演をした(とくに原稿も書かず、英語で講演した)。ポランニーに劣らず知的で優しい夫人は講演を褒めてくれた。だがマイケルは夫人に同調しなかった。彼の誠実さからすれば妥協は許されなかった。それが友人であればなおさらだった。彼は、世界が発見することができないまでも、求めなければならないことについて語った。彼は、それは神だと言ったと思う。私の知る限りでは、ポランニーは一度もこの言葉を書いてはいない。

 アーロンが触れているマイケルの70歳記念論文集はこちら。

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夏だな、っと。

創発の暗黙知―マイケル・ポランニーその哲学と科学

創発の暗黙知―マイケル・ポランニーその哲学と科学

 

 言語は、 そこに暗黙知が働くから有効なコミュニケーションの手段たりうるのだが、そのことは言語の構成それ自体を検討することからは明らかにされえない。これは、実は、言語学者自体にとってはかなりショッキングな指摘ということにならざるをえない。

 

 (言語によるコミュニケーションは)現実には極めて困難な過程なのであって、ポランニーの言語論上の指摘が別の角度において結果として含意したものは、人間間のコミュニケーションが高度の暗黙的な人格的参加に基づく詳記不能な過程である、ということだったのでもあった。

 

と栗本先生もマイケルもいう。原理的には理解できるが、そのまま自らの議論として先に進めるわけにもいかない。あらゆるものは全て個別で具体的に。言語学の意味論と語用論の知見を自分で理解することで、非決定の境界領域がより明確になるはずだ。

 

   

言語における意味

言語における意味

 

 怠慢で読み進めれてない。

<(_ _)> optical_frog先生。

 

33年という時(とき)

幻想としての経済 (1980年)

幻想としての経済 (1980年)

1980年のあとがき

人が物を書いたり、本を出したりするのはいったいなぜなのだろう。それは、自分の書いたものを通じて、顔も知らないどこかの読み手とコミュニケートできると信じるからであるし、その読み手を通じて社会とコミュニケートできると思うからなのであろう。難解だが、孤絶したといわれる思想家にしても、次々に著書を上梓しようとするについては、読者と交信できると確信しているのでなければならない。・・・だからすべての他者がそのコミュニケートを拒絶すれば、彼や彼女は平然として田舎教師や娼婦で限られた生を終るのである。・・・やはりこの書は私にとって大切な書であるから、希望としてはささやかにでも売れて欲しい。・・・だから、この本で私の考えに少しでも共鳴してくれる人がいたら、是非友人に推薦してくれと照れずに希望するものだし、サインでもなんでもしようと思うものだ。真面目な質問にはどなたであれ、直接筆をとってお答えしよう。

↓ 33年後

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

2013年のあとがき

・・・通説と違う歴史の個別論についてはいちいち通説への批判や否定のための論証は本書では提出していない。・・・大体、歴史学界の知的現状を見るに、頭から否定してやろうと構えている悪意の者どもには正しい証明を出してもわざと否定したり無視したりするだけだからである。・・・こんな連中やその子分といった連中に貴重な紙幅を割いてくどい説明をすることは、本書が基本的にめざしている経済人類学から見た全歴史像を初めて一気通貫的に示すという役割の邪魔になるだけだ。・・・丁寧な論証とやらを本書で出す必要などない。時間と紙の無駄である。・・・本書ではいちいち説得のための説明などしていない。・・・必要なら自分で調べたまえ。調べもせずにただ疑問に思うような人はただ読むのをやめなさい。・・・知性の低い者に、あえて説得の時間や紙幅を割くのは全く意味がない。・・・こういう頭と性格が目いっぱいに低劣な連中との議論など無意味である。・・・というわけだから、経済人類学の後進にチラとでもなろうと思わない者には一行たりとも読んでもらわなくてよいのが本書である。・・・そういう意味で、この本のタイトルを「人の目につきやすいものに」という出版社とはあまり共感できなくて少し論争した。ふと目についたから読んでみたという読者には本書は向いていない。・・・夢の先は墓場で見続けることにしよう。本書について人と語りたくば、半村良さんやフランシーヌさん、そして坂口安吾さんと語ろう。