A note on MICHAEL POLANYI AND THE CONGRESS FOR CULTURAL FREEDOM
- 作者: Coleman
- 出版社/メーカー: Free Press
- 発売日: 1989/07/01
- メディア: ハードカバー
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「自由を求める共謀 CCFと戦後ヨーロッパの苦悩("The Liberal Conspiracy. The Congress of Cultural Freedom and the struggle for the mind of postwar Europe")」の著者であるPeter Colemanは、1928年オーストラリア生まれのジャーナリストで、シドニー大学を卒業後にイギリスに渡り、LSE(London School of Ecomonics)で学業を重ね、最終的には政治家になったというちょっと面白い経歴の持ち主だ。娘の亭主(義理の息子)はオーストラリアの財務大臣だったPeter Costelloで、そのブレーンを務めてもいた。
そのコールマン(Coleman)がPolanyi Societyの機関誌であるTADに2006年に寄せた論文が下記で、CCFとMichael Polanyiの関係を詳しく解説している。登場する人物も多岐に渡り、「科学の自由」への関心の高さと実際に行動する力強さにある種の感動すら覚える。我々の今は、こうして選択し勝ち取ってきた結果だ。人類の自由な科学的な知見というのは、まさにそれこそが人類を特徴付けるものとして決して後退はしないのだ。
http://www.polanyi.bme.hu/folyoirat/2006/2006_04_Peter_Coleman.pdf
マイケルと「文化自由会議」に関する覚書
ピーター・コールマンマイケルが代表的メンバーであった文化自由会議(the Congress for Cultural Freedom、以下CCF)のアーカイブから拾い集めた、彼の生の発言を3つ紹介することで本稿を始めることにしたい。それは自由主義のテーマである自由/自律/曖昧さ/責任に対するマイケルの特別な関心を示している。
最初の発言は、1956年にSocie'te' Europe'e`ne de Cultureがヴェニスで開催した東西文化交流におけるものだ。そこではソビエトの古株のスターリニストがイグナチオ・シローネやスティーブン・スペンダーのような西欧知識人との対話を表明した。しかしシローネがロシア文学界の反逆的な伝統に何が起こったのかを知りたいと要望すると、それは断られた。それに対しシローネは、ソ連共産党政治局員や傀儡が参加する「文化交流」の会議には二度と参加しないと表明したのだった。
このヴェニスの会議について議論するためにCCFの実行委員会がパリで開かれた際、マイケルはシローネのこの反共産主義的態度に驚きを示した。
「残念だ。東西両陣営間の交流に資するどんな会議も有益であり、もしシローネのような人物が少数派なら会議はさらに有益で、人々はもっとこの問題に取り組むことだろう。こうした会議は悪いことではない。それは知的な活動を継続する手段だ。とても時間がかかりうまくいくかわからず不完全だが、そういうものなのだ。こういう活動を継続するあらゆる機会を捉える事しか出来ないのだ。」
東西の「文化交流」は落胆するような結果になることが多々あるだろうが、そうした現状に疑問を呈し、真実を広め、自由の灯火に希望を灯すことで徐々に進展していくのだ。劇的な転向は望むべくもないのである。マイケルの信念を示す2番目の発言は、1956年のハンガリー革命に対する彼の反応だ。革命のリーダーは共産主義者だった。西側陣営の反共産主義政策は一体どうあるべきなのか。マイケルはショックを受け、次のような声明を実行委員会に残している。
「ハンガリー革命に参加した民衆は我々の最も近しい同志だ。現在、我々がもし未だに反共産主義の立場を守り続けているのだとすればそれは間違っている。我々は反共産主義者ではない。私は反共産主義ではない。」
実際のところマイケルは熱心な反共産主義者であったが、1956年11月の状況下においては、そのイデオロギーがブダペストの革命参加者やハンガリー作家協会への支援を弱まらせることを望まなかったのである。独立心を示すマイケルの3番目の発言は、CCFや関連する反共団体へのCIA資金援助発覚に対する彼の反応だ。「私はCIAに勤務していたのか。」彼は語った。「CIAの存在は知っていた。戦後数年して期待して設立されたのだ。」
CCFは1950年6月にベルリンで設立された。個人的な体験から共産主義が知的自由と文化的自由の脅威であると考える100名ほどの知識人の集会だった。彼らのほとんどは社会民主主義者だった。スターリンやヒトラー政権下で囚人だった者もいたし、レジスタンスの闘士もいた。年老いた亡命者もいた。集会の終わりには、アーサー・ケストラーが起案した自由のマニフェスト(a Freedom Manifesto)を採択した。
マイケルはこの設立集会には参加できなかったが、実行委員会は、1953年のハンブルク第2回会議(科学の自由の擁護)にマイケルを招聘した。
彼を招聘したのは理想的な選択だった。名高い物理化学者であるマイケルはまた、反ナチス及び反ソビエト共産主義活動家としての経歴があったし、計画経済に反対し科学の自治のための自由化運動をイギリスで推進するリーダーであった。直近では、そうした過去の政治的な繋がりを問題視され米国への入国を拒否されるという屈辱も受けていた。彼自身が、ハンブルク会議が何と闘うものなのかを象徴していたのである。
マイケルの1936年の論文「真実とプロパガンダ」(『自由の軽視 ロシアの経験とその後』1940 所収)は、ウェッブ夫妻の論文『ソビエト共産主義:新たな文明か?』(1936)に対する数少ない反論だった(ソ連の威光が強かったこの時期、マイケルのこうしたスタンスはケストラーを刺激し、彼の著書『ヨミと人民委員』にはマイケルへの献辞がついたのだった)。マイケルはまた、1932年から1945年の間にイギリスや(それほどではないにせよ)フランス、アメリカでも広まった、マルクス主義者による「科学と社会の関係」を考える運動に強く反対した。世界恐慌による社会的政治的崩壊により、ジョン・デズモンド・バーナルと世界科学者協会が指導したこの運動が広く世に知らしめたのは、自由民主主義の失敗であり、科学は経済計画の一部として中央の管理下で制御されるべきであるという考えであった。
自由主義の反撃の狼煙は1939年のマイケルの論文「科学の権利と義務」(前述の『自由の軽視 ロシアの経験とその後』1940 所収)から始まった。1940年に彼はSFS(the Society for Freedom in Science)を設立した。この団体の活動により1949年代中頃にはマルクス主義者による「科学と社会の関係」を考える運動は弱体化し、それにとって替わる「自律的な科学者のコミュニティ」という考え方が広まり出したのであった。この考えは、ハンブルク会議で中心的な役割を担うこととなった。
シカゴ大学で教授職に就くため1951年にビザを申請した際、領事館での18ヶ月の審議と議論の末、とうとうリバプールの総領事はマイケルにこう通知した。 「あなたはアメリカ入国を認められない不適格者です。」 というのは、マイケルは一度だけ反ナチで親ソのFGLC(the Free German League of Culture)の後援者として名前を使われたことがあったのだ。親ソの雰囲気が蔓延していた1942年の12月に、ソビエトにおける科学者の迫害についてFGLCに宛てて手紙を書いたことがあったのだ。また1946年から47年の1年間、大英帝国とソビエトとの文化的関係を考える会(the Society for Cultural Relations between the Peoples of the British Commonwealth and the U.S.S.R)にも所属していた。この団体にはサマセット・モームやウォルター・デ・ラ・メア、アーサー・ブライアントといった小説家も属していた。戦前のソビエトへの往訪や、急進的な考えを持つ家族がいたことも悪影響を及ぼしたかもしれない。ともかく、マイケルの自由主義的で反共産主義的な信念に基づく数多くの著作では、アメリカ国務省当局者を納得させられなかったのだ。ハンブルクで開催された会議の議長となった時点で、所謂「辛辣で愚直な保守主義」には何の幻想も抱かなくなっていた。
「科学と自由」と題したハンブルクの会議には3つのテーマがあった。1つ目は、政治的支配やイデオロギーのない科学の自由/教育の自由/科学研究の自由という思想を広めること。2つ目は、ソビエト共産圏における科学者や研究者の扱いに対し科学的意見を喚起することだ。そして3つ目は、アメリカにおける科学の自由をしっかりと認めることだった*1(ヨーロッパの科学者がアメリカに入国する際の公的な制限や、議会調査委員会による科学者への圧力などといったものがもたらすアメリカという国への幻滅はあったけれど)。
本文註*1:これは当時の差し迫った課題だった。1952年にエドワード・シルスはアメリカの入国ビザ政策を非難する「原子科学者会報(The Bulletin of the Atomic Scientists)」の特別増刊号を発行した。その政策のせいで、過去に共産主義者と係わりのあった科学者はアメリカ入国を止められていたのだ。アインシュタインもこの増刊号に寄稿したし、イギリスとフランスの科学者数名がアメリカ国務省当局との苦い経験を記した。シルスはそれが「ひどく誤った考え」で、「支持者を遠ざけ、敵を元気づけ、我々の自由主義制度を弱体化させ、自由の原則に背くものだ」と批判した。同じ号でレイモン・アロンは、アメリカが入国政策を修正することが「至急求められている」「信望を得るということが冷戦時には重要な要素なのだ」と述べている。
1953年7月、ハンブルク自由都市に120名の科学者と研究者が集まり、市長は彼らを歓迎した。他の自由ハンザ都市は同盟旗を掲げ、オーケストラがグノー作「小交響曲 第一楽章」を演奏した(それは1950年のベルリンでの第1回会議のような壮大な感じではなかった。閉会時には、モーツアルトの洗練された上品な「Serenade for Winds」が演奏された)。それまでこうした会議が開かれたことはなかった。参加者は西側の19の国から成っていた(日本を含む。西ドイツとの関係が良くなかったイスラエルからの参加はなかった。)。ノーベル賞受賞者を含む自然科学者が中心だったが、レイモン・アロンやシドニー・フック、エドワード・シルスといった社会学者や哲学者もいた。
数名はナチス体制の犠牲者だった。ノーベル賞受賞者で第一次世界大戦では鉄十字勲章をもらった物理学者ジェームズ・フランクは、ナチスの政策に反対しゲッティンゲン大学を辞め、ドイツから逃れた。ハンス・サーリングは反ナチス思想のためウィーン大学の職を辞さざるを得なかった。オーストリアの物理学者で、オットー・フリッシュと共に「核分裂」という言葉を造ったリーゼ・マイトナーは1938年にナチス政権のドイツを逃れた。ドイツの美術史家で哲学者のエドガー・ウィントは1933年にハンブルクからロンドンのヴァールブルク研究所に逃れた。マックス ・ホルクハイマーは1933年にフランクフルトにある自分の社会研究所からジュネーブに逃れ、1934年にはニューヨークに渡った。マイケル・ポランニーはナチスに抗議しカイザー・ヴィルヘルム研究所を辞した。物理学者マックス・フォン・ラウエはドイツに残り、科学の自律とヒトラーに対する反抗の象徴となっていたが、1943年にはナチスに抗議してカイザー・ヴィルヘルム研究所を辞した。
ソビエトから逃れた者もいた。「遺伝学と種の起原」の著者であるテオドシウス・ドブジャンスキーや、歴史家で社会学者のフョードル・シュテプーンなどだ。ナチスとソビエトの両体制を経験した者もいた。かつての共産主義者アレクサンダー・ヴァイスバーグ・チブルスキー(「ソビエト物理学誌」の創刊者)と物理学者フリッツ・ホートマンの二人は、独ソ不可侵上条約の時期にスターリンに投獄され、ブレストリトフスクの橋の上でゲシュタポに引き渡された。
イギリスの科学者としては動物学者のジョン・ベイカーと化学者のエドワード・カルディンがおり、1940年にSFS(the Society for Freedom in Science)設立のためにマイケルに合流した。
アメリカ人参加者の中には核兵器と原子核工学に関する論争に戦後深く関わった人物がいた。ノーベル賞受賞者のアーサー・コンプトンはシカゴ大学で冶金学研究所の所長としてマンハッタン計画に従事しており、1945年7月には日本に対する原爆使用について150名の原子物理学者のアンケートを採った。サミュエル・アリソンは1945年7月にニューメキシコでのトリニティ実験(訳者註:人類初の核実験)のカウントダウンを読み上げた。ジェームズ・フランクは「原子爆弾の社会的政治的影響検討委員会」の議長であり、1945年6月に無警告での原爆使用反対する報告(訳者註:フランクレポート)をアメリカ陸軍省に提出し、核兵器の国際的な管理を呼びかけた。ユージン・ラビノヴィッチはロシア生まれの光合成の専門家で、やはりマンハッタン計画に参加し、後に原子科学者会報(The Bulletin of the Atomic Scientists)創設者の一人となった。創刊号には終末時計が表紙を飾り、午前零時=終末まであと10分であると世界に訴えた(訳者註:http://www.thebulletin.org/content/doomsday-clock/timeline)。この会報は第二次世界大戦後のアメリカにおける「科学者の運動」の礎であり、政府に影響を与えることとなった(数ヶ月に及ぶ公開講演や地方巡業そしてロビー活動の末、全ての原子力エネルギーを軍事利用に供するという計画を頓挫させ、核兵器を占有していた政府に核エネルギーの国際的な管理を求めるアチェソン・リリエンソール報告の採用を促した。この報告は、ソビエト陣営を除くすべての政府により採択された)。社会学者のエドワード・シルスはこの原子科学者会報の創刊と維持に尽力したのだった。
ハンブルク会議は1950年のベルリン会議のような闘志に満ちた会議ではなかったし、そうするつもりもなかった。4日間に渡り参加者は、純粋科学と応用科学の関係/科学の計画可能性/東西陣営における科学の自由の実態と原則について冷静に議論をした。最後に彼らは鉄のカーテンの向こう側にいる「不幸な」仲間達に友愛の挨拶を贈り、自由民として共に研究ができる日が来ることを待ち望んだ(1950年のベルリン会議のメッセージはあらゆる反乱に対する「物的支援」を提供することだった)。また、科学と自由に関する常設の委員会(CSF:Committee on Science and Freedom)を設置し、自由社会における科学の自律的な共同体という基本的な考えを推し進めていくこととした。
ローゼンバーグ夫妻の原爆スパイ事件及びオッペンハイマーが要注意人物として追放された事件の間の緊迫した状況において、こうしたベルリンやハンブルクでの成果は「計り知れない成功」だとシルスは主張した。TES誌(Times Educational Supplement)(訳者註:http://www.tes.co.uk/publications.aspx?navcode=91)の記者は次のように記している。「こんな危機的な時期にこうした連携がうまくいくのかと思った」が、哲学や宗教的には多くの点で異なる意見を持つ研究者達が「親密に交流し」、「自由主義の実例そのものとしての」全体主義への反対と知的自由の支援という点で一つになったのだ。そうした支援が為されるのを確認することがCCFの、そして新たに設置されたCSF(Committee on Science and Freedom)のミッションとなった。
マイケルのこの委員会(CSF)は、ハンブルク会議のテーマを推進し拡大するためにさらなる国際的な会議を開催した。ひとつは1956年にパリで開かれ、もうひとつは1959年にチュニジアで開かれた。そうした会議は公開会合(public meeting)と呼ばれることもあった。しかしその活動の実態は、1954年〜1961年の間マイケル監修のもとでマンチェスターのジョージとプリシラ(訳者註:マイケルの息子夫妻)が隔年で会報を発行することだった。
1950年代に発行されたCCFの出版物の中に、自由人権ジャーナル(civil liberties journal:CLJ)がある。世界中あらゆる場所での学問の自由の危機に注意を呼びかけるものだ。1955年にドイツのニーダーザクセン州の教育委員長にネオナチ党員が任命されたのに反対し、1955年に起こったタスマニア大学への政府介入に反対し、1956年のアラバマ州の学問検閲に反対し、1958年スペインでの研究者大量逮捕に反対した。さらに、南アフリカ共和国の大学でアパルトヘイトに反対する粘り強いキャンペーンを張り、会報の特別号を発行し、現地調査への出資を募る反対集会をロンドンで呼びかけたりした。そして非白人の学生が大学で学べるよう奨学基金を設立した。また、東側のソビエト陣営との学問的交流も促進させ、(向こうの学問も)徐々に自由化されていくはずだというマイケルの信念を支え続けた。
短い記事/論争的なスタイル/高級紙のような趣で構成されたこの(ジョージとプリシラによる)会報は、議論百出の活発な会報だった。15ヶ国以上の5,500名の購読者がいた。だが、ハンブルク会議を受けて科学者の自律的なコミュニティというアイデアの精緻化を行っていくような知的な堅実さはなかった。1961年5月に会報は終了し*2、新たにより学術的な季刊誌がアメリカの著名な社会学者エドワード・シルズにより創刊された。
本文註*2:1961年の8月に正式に廃刊の決定が下された。キングスレー・マーティンが書いていたNew Statesman紙のコラム「批評(Critic)」によると、議会は、CSFが共産主義の科学者ジョン・デズモンド・バーナルに講演を依頼し、核政策に関するシンポジウムを計画していることを知り、CSFの活動と会報を冷戦のピークにあわせて停止したのだった。マイケルは、共産党の政策についてバーナルと議論しても「益が無い」だろうとわかっていた。CSFの活動は、エドワード・シルズの元で継続し広がっていった。
マイケルは科学者であるだけではなく、哲学者であり経済学者でもあった。1955年にCCFはマイケルを招聘しミラノで国際会議を開いた。それが自由主義経済、ソビエト経済そして第三世界(まだその頃は未開発国家と呼ばれていた)の経済発展に関する会議だったことは、経済学者としてのマイケルをよく表している。マイケルにとってこの会議は、社会主義でも資本主義でもない「新たな経済秩序」を「熱心に議論する」機会だった。
150名の知識人が1週間ミラノに集結した。主に経済学者や社会学者で構成され、前回までの会議を凌ぎ、アジアやアフリカ、ラテンアメリカにまで及ぶ広範な国々から集結していた。ハンナ・アレントによる「退屈の極み(deadly boring)」についての議論や、ドワイト・マクドナルドらによる「戦火無くばドラマ無く輝きも無し(no fire, no drama, no sparkle)」という問題提示があり、マックス・ベロフらによるとこの会議は「いくつかの重要な点で我々の精神世界の有り様を変えた」のだった。
この時期、非同盟の発展途上世界であるバンドン世代(The Bandung Generation 訳者註:第一回アジア・アフリカ会議に象徴される国々)が、世界の檜舞台に上がろうとしていた。
1週間の会議を進める中で明らかになった5つのテーマに議論は絞られ、それぞれ小さいセミナーで議論が進められた。
最初のテーマは、潜在的で水面下に潜んでいるものだった(それは初期のCCFの活動にも見られた)。混乱したいろいろな議論に見られる考えをまとめようとしていく中で、ミラノ会議を意義あるものとし、根本的なその使命を明らかにする1つの共通したテーマをシルズは見出していた。彼は書き記した。「イデオロギーの終焉?」。
参加者の多様な視点や問題意識にも係わらず、議論はあるひとつのテーマの周りを巡っていた。ほぼ全ての議論があるひとつの方向性を示し、空理空論の批判・熱狂主義の批判・イデオロギーに傾注することへの批判という形をとっていた。少なくとも、人類は自分の庭を耕し土壌を改良してきたのであり、強迫的な見通しや幻想を排し、イデオロギーや狂信がもたらす害悪から逃れるのだという考えを示していた。現代のわれわれが到達したある分岐点へ向かって考えを進めることは、会議の主催者の意図するところであった。それはイデオロギー的熱狂の終焉であったといってよいかもしれない。この会議は、「共産主義は思想闘争に負けた」ことを示すある種の式典のようなものだった。
2番目のテーマは補足的なものだが、マイケルがいうところの「社会主義と資本主義」という誤った二分法の棄却であり、国家管理が自由を弱めることは無いという主張に明確に現れているテーマである。熱を帯び頻繁に国家の介入を引き起こすにふさわしい議論だ。
ヒュー・ゲイツケルが率いるイギリス労働党の「派遣団」がこのテーマを歓迎した。「ゲイツケル主義」は国際的な運動だった。1959年には、マルクス主義を放棄しゴーデスベルク綱領を採択したドイツ社会民主党においてもこのテーマが勝利を収めている。ミラノ会議でのこのテーマは、国家の介入に強固に反対するフリードリッヒ・ハイエクをして、自由の未来を計画することはできず自由の死を記録することはできると宣言させることになる。しかし、それを支持するのは差し当たり少数であった。
3つめのテーマは、ソビエトの経済的成功、超大国としてのソビエトというものだった。1953年7月号のフォーリン・アフェア誌上で、ピーター・ウィルスが「ソビエト経済は西側を追い越す」という記事を書いている。1957年にソビエトはスプートニク号が初めて成層圏に到達したことでアメリカを打ち負かしたという劇的な後押しを得ることになるのだが、ピーターのその統計調査は1953年時点でも挑発的なものだった。ミラノの会議においても、ソビエトの生産性が曇りのない目で議論された。結論や合意に至ることはなかったが、マイケルは次のような警句を発した。
「西欧やアメリカの最高の知性が集まる今日の会議において、ソビエトが経済的に西側を大きく引き離して成長しつつあるのか、それともまだまだずっと後方を遅れて進んでいるのかを決めることができないでいるようです。この教訓は明確で切迫したものに思われます。真偽の疑わしいソビエトの経済的活力について、正確に知りたいし知らねばならないということです。世界中でソビエト政府への忠誠を誓う動きに対し、我々は知的で道徳的な闘いに突入しているのであります。我々の立場を表明する最も効果的なそうした情報が不確かであるため、我々の議論はレトリックに堕していき、責任逃れの曖昧さを増すことになるのであります。」
4つめのテーマは新しいもので、「未発達(発展途上)」の世界に関するものだ。バンドン会議が同年始めに開催されたが、非植民地主義のビジョンは西欧の進歩的文化人達の心に深く染み渡っている訳ではなかった。会議は経済的支援の議論になり、数名の西欧知識人の「支援しないなら我々はソビエト側につく」という脅迫めいた発言に対し、ベロフは怒りを露わにした。最終的には、ナイジェリアのサミュエル・アキントラ族長(Samuel Akintola)に後押しされたインドのミノー・マサーニ(Minoo Masani)が異議申立て、会議は発展途上国と自由世界の知識人同士の連帯を決議し、文化的支援のプログラムを提唱することになった。マイケルはこう言及した。
「ワクワクする景色が目の前に広がっています。新たな親交の地平です。ジョージ・ケナンやベロフらは懐疑的なコロンブスのままでしたが(ケナンは、アメリカにとってアジアやアフリカやラテン・アメリカと一緒に会議に参加することはほとんど利益がないと考えていた。アメリカに対する誤解は解消されないという意味で。)。しかし、バンドン世代のアジアの知識人達が参加することで、CCFが新たな議題を設定することになったということについてミラノに集まった西欧知識人は異論がありません。それは、ソビエト神話は西側ではすでに死んでいるが、第三世界ではまだ確実に息づいていると言うことなのです。」
5つめ(最後)は、ある意味偶然にテーマとなったものだ。エコノミスト誌によるこの会議のレポートで、オックスフォード大学の歴史学者であるハドソン(G. F. Hudson)は書いている。
「会議は実に多様な意見の開陳をみたが、それにしても議論がこれほど相互の寛容と相手の意見を理解しようという努力に満ちて進んだというのは特筆すべきことだ。会議の発起人達は、こうした会議にはつきものの受け入れがたい多くの条項を含んだ誓約書を参加者に押しつけることなく、様々な意見の自由主義知識人達を連帯させる方法を発見したように思える。」
ハンブルク会議では、すでに輪郭を示していた科学者のコミュニティを原型とする全世界的な知識人のコミュニティ構築の可能性が(ケナンの懐疑主義にもかかわらず)示されたのだった。この考えはすぐさまCCFの最終的な目標とされ(共産党の同調者達に勝利したのだと結論づけられた)、セミナー・行事・雑誌・センターなど全てのプログラムが残りのCCF存続期間中は維持された。
マイケルはセミナー企画委員会の委員長に指名され、国際的な自由のコミュティとして恒久的な円卓会議へ収斂していくような、他と一線を画した実用的な小さなセミナーを各国で継続的に実施していくことになる。
しかしもうひとつ、マイケルが必然的に主導的な役割を果たした国際的な大規模な会議があった。1960年にベルリンで開かれた「自由の進展(Progress in Freedom)」と呼ばれる会議だ。50ヶ国、230名の知識人と学者がベルリンの会議場に集い、CCFの10年間の活動を評価し、初期の理想を見失ったという高まる批判を検討したのだった。
マイケルは、時期尚早だが仮に「ポスト・イデオロギー時代」と呼ばれるものが何かを検討するグループをとりまとめた。彼はそのグループにおける自分の報告に「ニヒリズムを越えて(Beyond Nihilism)」という題をつけた。それはCCF内部にくすぶっていた亀裂を明確に示したもので、あらゆる権威の否定により生じる空白を埋めようとしてイデオロギー的な熱狂に変換されてしまう、全体主義とその道徳的熱狂の恐さを解明していた。マイケルは語った。
「我々の時代の道徳的責務は、過度の道徳的要求を抑制することであり、呼び起こされたナショナリズム・自由への信仰・プラグマティズムに基づくであろう穏健な礼節(civility)を取り戻すことなのです。」
マイケルはこの新たな礼節(civility)がすでに東西陣営双方に生まれつつあることを感じていた。一方は「イデオロギーの終焉」という形であり、もう一方は「修正主義」という形で。彼はイデオロギー的な嘘を拒否する「普遍的な(中国を除く)知的ムーブメントのパラダイム」としてハンガリー革命を捉えていたし、「胸が悪くなるような」4つの嘘を描いたポーランドの詩人アダム・ヴァジッキ(Adam Wazyk)の詩「大人のためのポエム(Poem for Adults)」を、ポスト・イデオロギー時代にふさわしい詩だと考えていた。
リチャード・ロイエンタールは「メシア信仰・ニヒリズム・未来」と題した論文でマイケルに反論した。その主張は、全体主義の起源を解明していく中で、マイケルは知識人の役割を過大評価し、必要な変化を妨げる頑固な保守主義の影響を過小評価しているというものだった。リチャードはまた全体主義を分類し、ナチズムは「悪魔的」だが、マルクス主義は自由なヒューマニズムとの繋がりを保っていると考えた。今後、急速な社会改革および道徳を内面化する「文化革命」が求められるだろうが、「必要な改革がこんな状況において合意の元で達成されることはないだろうし、そんなことは信じてもいない。」と考えていた。
後知恵ではあるが、「礼節(civility)」の支持者と「文化革命」の支持者の間で起こったこうした議論は、1960年代終盤にCCFを弱体化させその「中枢」を破壊した「新保守主義と新左翼の対立の根本」であるように思われる。
CCF内部のこうした意見の相違は1960年代が進むにつれて深まる一方だった。そしてその亀裂は、CIAによる資金援助問題が「表面化した」ことで爆発した。文明に対する全体主義の危険について公に注意を促したCCFのとても大きな貢献をずっと長い間覆い隠すことになった。マイケル以上にこの大きなテーマに貢献した人物はいないのである。
読み応え充分な論文だ。
後半にある1960年のベルリン会議での議論の内容は下記で読むことが出来る。日本からはあの「ビルマの竪琴」の著者である竹山道雄が参加しており、近代化を考えるときに国家に心理学を適用してみることなどについて語っている。
HISTORY AND HOPE: PROGRESS IN FREEDOM. THE BERLIN CONFERENCE OF 1960
http://www.amazon.com/HISTORY-HOPE-PROGRESS-FREEDOM-CONFERENCE/dp/B000HHWVD0/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1327845062&sr=1-3