暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

Personal Knowledge

 

Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy

Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy

 

Mary Jo Nyeが新たに序文を附したP.K.が出た。もちろん、買った。

表紙は、Carl Zochのこの写真のどこかを一部拡大したもの(らしい)。

 

宇宙(the universe)。

 

If the universe were in fact meaningless, the destruction of religious beliefs would have been fully justified. 

そして、

This universe is still dead, but it already has the capacity of coming to life.

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読書:戦中の意思決定システム

戦中戦後のことはなんとなく知ってるような気になっているだけだったな、俺。

瀬島龍三という個人を縦糸に、日本的「空気」が醸成される様子がよくわかる。

お薦め。

東アジア各国への戦後補償スーキムの中で商社が焼け太りしていく様子も興味深い。

沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか 新潮文庫

沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか 新潮文庫

 

<陸軍の意思決定権が課長級に降りる>

 皇道派青年将校らが決起した軍事クーデター(1936年2.26事件)は、内大臣斎藤実や蔵相高橋是清ら政府要人を暗殺、日本中を震え上がらせた。この時、陸軍上層部はすっかり自信を喪失していた。ある将軍は青年将校が自分を殺しに来たと思い、門を閉じ、部屋に逃げ込むようなありさまで、弱腰の陸軍上層部に事件を処理する力はなく、中堅幕僚が主導権を握った。 

 

 1939年8月、独ソ不可侵条約締結で平沼駄一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出し退陣した。陸軍省の国会対策の責任者だった軍務課長の有末精三は、後継に陸軍大将の阿部信行を担ぎ、阿部内閣を誕生させた。「有末課長の動きは昭和天皇の耳にまで入り、天皇が不快感を表したほどだった。

 

 連鎖的に起きた陸軍の権力下降。筒井はその背景の一つに日本特有の稟議制があると指摘する。「陸軍の意思決定システムが米国のようなトップダウンでなく稟議制なんです。課長より下の参謀が立案し、トップにもみ上がっていく。ある意味で意思決定に平等主義的な要素が強いんです」

 稟議制は戦後の今も官庁などで一般的に採用されている意思決定システムだ。上層部の決定を一元的に下に降ろすやり方ではないから、下が結束して何かやろうとすると止めにくい。 

 <大本営命令>

 天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する。作戦部長、参謀総長島の決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令される。統帥権(軍の最高指揮権)独立」の建前から内閣や議会は直接関与できず、天皇参謀本部の原案を拒否することもまずない

 「しかし参謀総長にしてみれば、自分が上奏して陛下の裁可をもらったガ島の奪回作戦だからね。後に引けない苦しみがあった。陛下の方も下から撤退を言ってこない限り、自分から言えない。おかしなことだが、当時はだれも撤退を言い出せない仕組みになっていた」

 <731部隊と東条>

 1944年4月下旬、東京・市谷にある陸軍省の大臣室。東条英機の怒りはすさまじかった。「けしからん。 おれは陸軍大臣であり総理であり参謀総長だ。すべてのことについてこれ以上の責任者はおらん。そのおれに黙ってやるとは」東条が激怒したのは陸軍省医務局長、神林浩の報告などから、七三一部隊による細菌戦計画が進行しているのが分かった時だ。 「参謀本部作戦課は東条さんに内緒でシドニーやミッドウェー、ハワイなどにペスト菌攻撃を行おうと計画していた。 それが東条さんに知られてしまったんだ」

 

 米軍は既に南太平洋を制圧し、日本軍の中部太平洋の拠点サイバン島に迫っていた。作戦課は戦局転換のため米軍などへの細菌攻撃を計画した。だが毒ガス使用に反対した天皇は細菌兵器も許さない見通しが強かった。作戦課は陸軍省の医務局と連携し、天軍隊皇や東条に内緒で準備を進めた。

 当時の作戦課側の発言が元医事課長、大塚文郎の備忘録に残っている。「ガス(毒ガス)陛下は不可で許されぬ。局長(医務局長)は上奏せぬが可と言はれた、参本(参謀本部)は上奏せぬ事に決定した……総理大臣にも言わぬ方が可」

 

 東条はなぜ細菌兵器使用に否定的になったのか。その謎を解くカギは1942年4月、ドウリットル米軍中佐らのB25爆撃機による本土空襲だ。乗員8人が日本側捕虜となり、うち2人が銃殺された。「東条さんは処刑は誤りだったと後で思うようになり、それから国際法遵守の考えに変わった。その背景には天皇の姿勢があったと思う。東条さんは天皇の考えを忠実に守ろうとする人だったから」

 <ソ連参戦は織り込み済み>

1945年5月、大本営ソ連参戦時に関東軍南満州の山岳地帯・通化に撤退させ、満州の残り四分の三を放棄する作戦計画を決めた。持久戦に持ち込み、ソ連をてこずらせ、本土決戦を有利にするのが目的だ。国境地帯の開拓団への避難勧告はなかった。

関東軍作戦班長、草地貞吾が言う。「(ソ連の対日参戦までは)ソ連軍を刺激しないための『静誰確保』が関東軍に与えられた任務だった。国境近くの軍や開拓団がいなくなり、ソ連が無血進撃してきたら大変だからね。悪く言えば案山子の役割をして、国境地帯でのこちらの存在を誇示する必要があった」

ソ連参戦4日目の12日、関東軍総司令部は通化に後退した。各地で戦闘が続く中、避難民の多くは軍の保護なしに広大な原野に取り残された。 

 

Polanyi前夜(これはFictionです)

栗本先生は、学究生活の初めから「歴史」に強い関心を持っていて、最後に世界史に還っていったんだな、という話*1

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 慶應義塾大学の学部時代、栗本先生は文学研究会と理論経済学研究会に参加していたが、2年の後半から自治会の方が忙しくなってやめてしまった。卒論は金融論。東海銀行に内定が決まっていたところ、「どうも銀行ではやっていけないんじゃないか」と思い始めて大学院に進んだ。慶應の院には社会経済学史会で活躍していた塾長の高村象平がいて、そこで経済理論をやった。

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当時の西洋経済史は大塚史学が主流の生産力中心史観。社会は最初非常に単純だが、だんだん複雑になって発展していくという考えで、その発展のゴールがイギリス産業革命だった。典型的な資本主義成立の道を歩んだという意味でイギリスは日本の目指すべきモデルであり、国内生産から市場が徐々に拡大していくことで資本主義経済が形成される(一国資本主義論)という説明がなされた。

また、文系の研究方法はどこをみても訓詁主義の文献第一主義であり、マルクスの『資本論』がバイブルのように取り扱われ、彼の一言一句に本居宣長の『古事記伝』のように訓を付ける作業が学問とされ、論文の末尾に総括としてマルクスの引用を掲載することさえあった。

栗本先生は進学した大学院のこうした知的状況に大きな違和感を感じた。実際、イギリスの産業革命は国内に閉じた毛織物工業から起こったのではなく、インドとの対外交易(綿製品)を中心に起こっていたのだから。明確に言語化できていなかったがマルクス貨幣論にも不満だった。学問としての経済学には先行きがないんじゃないか、どこかでオレと同じことを考えている学者はいないのか。

ちょうどそのころ、和歌山大学経済学部長に就任したばかりの角山榮が自宅で『イギリス史研究会』を立ち上げた。「大塚史学以後のイギリス史は魅力がない。今後どうすればよいか研究会を開いて頂けませんか」と川北稔と村岡健次の両名が角山の私宅を訪れたのがきっかけだった。

角山は戦前から京大で経済学を学んでいた。関西ではもともと大塚史学に批判的な研究者が多かったが、角山も、大塚に魅せられてイギリス経済史を専門に研究を開始したものの、大塚史学の誤りを訂正したり、新しいキーワードで私論を展開するなど独自の活動をしていた。また、今西錦司共同研究会(全く異なる専門分野の研究家を交えてあるテーマの討論・研究を進める場)にも参加した。ある日、研究会のメンバーだった植物学者の中尾佐助から角山はイギリスの食事について尋ねられた。曰く、イギリス人は何を食べているのか、イギリスの台所にまな板はあるのか、包丁はあるのか等。文献第一主義に慣れた角山は中尾の質問に答えられず恥をかいた。が、振り返って、こうしたイギリス人の暮らしを支えている基本的なことをまったく知らずして果たしてイギリスの歴史を語れるのか。角山はフィールドワークの重要性を強く意識し、イギリス留学を通して人類学のフィールドワークの手法を経済史に積極的に持ち込んでいた。

私宅での『イギリス研究会』を始めて間もなく大学紛争がいっきに全国に拡大した。多くの大学で全学ストによる学校封鎖で授業ができなくなった。そこへ研究会に飛び込んできたのが、イギリス産業革命期の鉄工業の研究をしていた慶應院生であり、慶應全学ストのリーダーである栗本慎一郎だった*2

栗本は東京からわざわざ東名高速名神高速を三菱の新車で*3飛ばしてやってきた。遠方だから声をかけた覚えはなく、角山は驚いた。 おそらく口コミで誰かから情報をきいて駆けつけたに違いない*4。角山の家に入ってきたとき、段ボール箱を担いでいたので「それなに?」と聞いたら「束脩です。中味はかっぱえびせん。やめられない、とまらない、そのコピーは自分が作ったんです。」とこたえた*5。それ以後、毎月1回開く研究会にはスト、大学封鎖が続く限り、東京からクルマで駆けつけて参加した。栗本のそうした行動を高村象平は知っていたようで、しばらくして高村から角山宛に「栗本君をよろしくご指導給わりたい」と記した手紙が届いたそうだ。 

角山榮はその後、『茶の世界史』『路地裏の大英帝国』といった書籍で生活史の視点から見事に世界史を切り取ってみせた*6

茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会 (中公新書 (596))

茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会 (中公新書 (596))

 

 

路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史 (平凡社ライブラリー)

路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史 (平凡社ライブラリー)

 

 

しかし栗本先生は生活史には進まなかった。

フィールドワークの結果としてお茶に注目し、お茶とそれをめぐる事柄がヨーロッパの歴史を決定している、という視点は面白い。でも、そうした視点はいくつでも展開可能だ。砂糖とそれをめぐる事柄がヨーロッパの歴史を決定しているとしたのが『甘さと権力』だった。

甘さと権力―砂糖が語る近代史

甘さと権力―砂糖が語る近代史

 

お茶と砂糖、どちらが正しいのか、どちらも正しいのか。

不毛にすぎる。

そして栗本先生はカール・ポランニーに出会い、経済人類学を選んだのだった。

 

 

 

 

*1:2014/11/08に栗本先生に確認したところ、角山先生の記憶が間違っている、とのこと。

*2:2014/10/18 追記:栗本先生に本件を直接尋ねたところ、「いや、院生時代じゃなくて天理大学に就職したあとだったはず」、とのこと。

*3:2014/10/18 追記2:これも直接栗本先生に聞いたところでは、学生時代はポンコツ自動車で新車になんて乗れなかった、とのこと。

*4:2014/10/18 追記3:繰り返しになるが、栗本先生本人の弁によると、院を卒業して天理大学時代に角山さんから声がけがあって出向いた記憶はあるのだが・・・とのこと。

*5:2014/10/18 追記4:しつこいが、これも栗本先生の記憶にはないらしい。次回11/08に再度お会いするので、その時に本書を持ってくるようにとのご指示有り。

*6:2014/10/18 追記5:これまた栗本先生に教えてもらったのだが、10/15に角山先生は逝去されていた。知らずに質問した自分が恥ずかしい。合掌。

沈黙交易 1979-2013

著者アイヌ関連の精力的な研究者で有り本書が刊行されたことも知っていたが、先週新宿の紀伊國屋書店で偶然見つけてページを繰ると、「栗本」「ポランニー」が頻出している。購入し読んだ。栗本経済人類学に関心のある方にはお薦めしたい。

アイヌの沈黙交易―― 奇習をめぐる北東アジアと日本 ―― (新典社新書61)

アイヌの沈黙交易―― 奇習をめぐる北東アジアと日本 ―― (新典社新書61)

 

 瀬川によれば、沈黙交易の実在については疑問の声も有り、「ポランニーや栗本慎一郎のようにこれを実在の習俗と考え」る研究者がいる一方、「沈黙交易に関する資料は聞き書きばかりで、実証的に裏付ける証拠はきわめてとぼしい、とその実在を疑う研究者も少なくない」と言う。この議論は実は1979年の『経済人類学』第6章 沈黙交易でも触れられていて、  

経済人類学 (1979年)

経済人類学 (1979年)

 

  デ・モラエス・ファリスやゲイバーらが「きちんとしたフィールドワークによって裏付けられたものではない」とその実在を否定しているとしている。2013年の瀬川が引き合いに出している否定論者はフィリップ・カーティンだ。これは、友人であるドン・デ・ヴォイさんがmixiの栗本コミュ及びカール・ポランニーコミュで2010年6月に紹介してくれていた(ただしそこでは、沈黙交易論への反論ではなく再配分論への反論としてのご紹介だった)。 

異文化間交易の世界史

異文化間交易の世界史

 

 瀬川は「アイヌや北海道に限ってみても、沈黙交易は古代・中世・近世各時代の資料に記録されており、さらに日本側資料だけでなく中国側資料にもみられるのです。これらの記録をすべて虚偽として一蹴することはできそうもありません。」と、栗本・ポランニーに賛同を示し、沈黙交易=異人との接触忌避交易(栗本理論)を敷衍し、具体的にアイヌにおける沈黙交易の実例文献分析及び彼らの表層上の意識である穢れ観念について論を進めます。

またコロボックルについても、栗本先生は「和人に追われて北海道の地に来たアイヌのさらに先住民族の表象」だろうとしていました(1979)が、瀬川によると北海道アイヌから15世紀頃に分かれた千島アイヌだろうとの独自の立論も展開していて、面白い。

ちなみに、瀬川も栗本先生(1979)も沈黙交易の先行研究としてグリアソンを引いているが、

沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説

沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説

 

 2013年に文庫化された『経済人類学』の脚注では「邦訳も出たが、原著を読んだ方がよかろう。」と、きちんと後続邦訳をフォローしていて、さすが先生!と感心してしまった。w (それにしても、ハーベスト社の邦訳の着眼点はユニークだね) 

経済人類学 (講談社学術文庫)

経済人類学 (講談社学術文庫)

 

 今回のエントリの結論。

  1. 2013年の文庫版まえがきで「展開を期待したものがほとんど実現しなかった」「諸学者の研究を喚起したいという意味も意識」していたが「33年たってもまだ十分ではない」と栗本先生は嘆いているが、こうして瀬川のように自分の研究分野に消化・展開してる例もあるのです、先生。
  2. が、しかし一方で、では沈黙交易の意味は何か(社会の全体性に従属する不可視の諸制度のひとつ)という点については、1979年の『経済人類学』第6章及び第12章で披露している「実在論的認識論及び生命論」が現時点で広く研究者に膾炙しているようにはみえないのも事実。前述のまえがきで「ああここはカール・ポランニーでなくマイケル・ポランニーを論じておくべきだったな」としているのは、まさにこの点だろう。私の、課題だ(と、嘯いておこう)。