暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

夏に読む中谷宇吉郎

渡辺慧と同様、中谷宇吉郎寺田寅彦の弟子であり、雪の研究で有名だ。出身地の加賀には「中谷宇吉郎 雪の科学館」がある。世界で初めて人工雪の作成に成功し、日本の低温物理学を世界のトップレベルに押し上げた立役者だ。 

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寺田の文才をも正統に受け継いだ中谷は、『中谷宇吉郎随筆集』において温かみのある文体で知的好奇心をくすぐる優れた随筆を残している。科学コミュニケーターなんて言葉が流行っているが、寺田・中谷のように優れた科学者でありながらかつ分かりやすく科学の心を伝えるような研究者は希少だ。 

中谷宇吉郎随筆集 (ワイド版岩波文庫)

中谷宇吉郎随筆集 (ワイド版岩波文庫)

 自分の関心(マイケルとか)に引き寄せても大変に興味深く共通した問題認識がみてとれるので、その随筆をいくつか紹介したい。

最初は本業の「雪」。 

中谷の名文句に「雪は天から送られた手紙」という言葉がある。雪の結晶にはいろいろなカタチがあるのだが、そのカタチを決める条件は一体なんなのか。暗号化されて雪の結晶に託されたその秘密(条件)を中谷は解き明かしていくことになる(中谷ダイアグラム)。 「雪雑記」という随筆の最後を中谷は次のように締めくくる。 

寒い日にあって散々苦労をして、こんな雪の研究なんかをしても、さてそれが一体何の役に立つのかといわれれば、本当のところはまだ自分にも何ら確信はない。しかし面白いことはずいぶん面白いと自分では思っている。世の中には面白くさえないものも沢山あるのだから、こんな研究も一つ位はあっても良いだろうと自ら慰めている次第である。

オモシロイと思ったことを継続的にやり続けること。徹底的にpersonalであること。寺田寅彦は「線香の火を消してはいけない。」という言い方で、地方の学校へ教師として赴任する弟子たちに諭していた。別に学問や科学でなくともよい。金がない、時間がない?。線香の火は灯し続けたいものだ。

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中谷の随筆の一つに「西遊記の夢」という一文がある。小学校の頃に夢中で読んで三蔵・悟空・八戒の活躍に胸を踊らせたという話から始まるのだが、それで終わらないのが科学者中谷。玄奘が辿ったその道は決して空想の世界ではなく探求する我々人間の性の現実の道であることを上手に語りおろす。 

まず出てくるのが「西域画聚成」だ。昭和35年に300部だけ刷られた稀覯本で、審美書院の出版。中谷はこれを手に入れたようで、そこにある敦煌出土の降魔図の中に八戒を見つけたというのだ。

中央の岩上に結跏趺坐した釈尊の周囲に、怪奇な魔衆が群り集っている。空想の限りを尽くした絵である。その中に魔衆の一人として、長い嘴を突き出した八戒が、熊手をふりあげて、強くないくせに威張った顔をして立っていた。八戒のくせに裾長の着物を着て、金の冠なんかをかぶって、不器用に熊手を振りかぶっている。

実物を見たいと思っていろいろググッてみたが出てこなかった。残念。この画は宋初のもので、西遊記が書かれた宋末元初より以前、玄奘が旅した唐代からは300年ほど後に描かれたものだ。

古来白骨人の収むる無しとうたわれた青海のほとりには、その頃丁度八戒などもいたのであろう。

と中谷は一旦結ぶ。 僕らの世代にとっての西遊記といえば、 


(1)TV人形劇 ドリフターズの「飛べ!孫悟空」 ニンニキ ニキニキ♪  
(2)堺マチャアキ 西遊記 
(3)諸星大二郎 西遊妖猿伝 

の3つだ。(3)の妖猿伝は今現在も週刊モーニングで連載が続いている。 


中谷はさらにここからスタインの「中央アジア踏査記」につなげていく。スタインは1900年から1916年に渡って前後三回、支那西域タクラマカンの発掘を続けている。1300年前に三蔵法師が実際に通った道を推定しながら砂中に埋まった遺跡を発掘していくのである。玄奘の道は空想奇想の類ではなく現実であることを上手に繋げていく中谷。

スタインの本を読んでいると、到るところで「西遊記」の情景を見ることが出来る。八百里の間ことごとく火焔につつまれ、それを越えようとすれば黒鉄の身体でもとけてしまうという火焔山では、孫悟空は羅刹女の芭蕉扇にあおられてひどい目にあった。・・・クルック・タグの侵食丘陵地帯に挟まれた流出口のない低地の、砂岩と礫岩とよりなる赤裸の山肌は、無人の境にあって「見るからに毒々しく真っ赤に照り映えている。」そしてそれは昔から土地の支那人の間に「火の山」と呼ばれていたのである。

実際スタインは「中央アジア踏査記」でこう述べている。

偉大な仏教の行脚僧玄奘もここを通った。このシナの僧侶にはすっかり傾倒していて、いまではわたしの守護聖人と言ってもいいくらいだ・・・」

 「中央アジア踏査記」は中古なら安く手に入る。私も恥ずかしながら今回はじめて購入し読み始めた(もっとも、中谷が読んだのは風間訳で、私が読んでいるのは沢崎訳だ)。 

 

中央アジア踏査記 (西域探検紀行選集)

中央アジア踏査記 (西域探検紀行選集)

加賀の「雪の科学館」の設計をした磯崎新も、中谷の随筆の中ではこの「西遊記の夢」が一番好きだという。

その中で僕が一番関心を抱いたのは、この西遊記と同時にそれを説明するのに、スタインという探検隊による、湖が突然消えていったり、突然山が崩れたりというようなところをずっと辿っていく探検の記録です。その記録と西遊記の孫悟空や猪八戒が様々な事件を起こしていく過程、このフィクション、そのリアリズム、この二つが同時に考えられています。その内にいつのまにかどちらがフィクションでどちらがリアルか分からなくなる、こういう書き方が僕は大好きです。

マンガ「エマ」でヒットを飛ばした森薫が丁寧な筆致で描き進めているのが「乙嫁語り」だ。19世紀後半の中央アジア、カスピ海周辺の草原地帯に暮らす部族の風習や服装が丁寧に描かれ、スタインのようなイギリスの研究者も登場する。おすすめ。  

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

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今までの物理学では、物が見えるというのは、物の方から光線が来てそれが眼に入るからで、眼から何かの線が出てそれが物に当たるから見えるのではない。眼ではなくて何か未知の機能で感ずるとしても、それを感じさせる作用は物から来るという考え方である。 
「千里眼その他」

これは明治時代に起きた千里眼騒動に関する中谷の随筆からの抜粋だ。映画「リング」が好きな人は是非一読を進めたいが。(笑)

物を見るということは確かに上記で中谷が言うとおりで、我々の眼球から何がしかの作用線が発出されて物体に衝突し、その反射線が再び眼球に到着することで物を見ているわけではない(コウモリは似たことをしているし、潜水艦のソナーもその類だが)。一方で我々はよく「視線を投げかける」などと表現することがある。

<レフレクション(反射・反省)>という言葉は、本来、ココからの光がソコに当たって跳ね返ってくる、ということを意味する。<レフレクション>とは、何かが跳ね返ってくることにおいてハッとして「ここ」を確認させられる、ということである。・・・<レフレクション>という関係は、未成立であったココから発したものが跳ね返って再び帰ってくることによってココが成立する、という意味での<再帰>性なのであり、そう反射してくることにおいてはじめて「ココ」なるものを省みる、という意味での<反省>なのである。 
『他者とはだれのことか』 大庭

僕らが物をみることに働いている力は何かを考える上で、中谷の「南画を描く話」が大変に面白い。 

寺田の墨画を手に入れた中谷が自分でも描き始めるという話である。墨画というものは濃淡で立体的にした上で、必要な線をできるだけ削り、省略していくものらしい。中谷は雪の結晶を描きはじめるのだがなかなかうまくいかない。ある日新聞の集合写真を見てハタとひらめいた。沢山の人の顔が小さく写っているその写真は、よくよく詳細に見てみると黒と白の斑点で成り立っていて濃淡などはない。黒い斑点のカタチも白い斑点のカタチもほとんどの顔で同じようなカタチでしかないのに、皆の顔には特徴が出ていて表情までわかる。これは一体どういうことなのか。

そういうことが可能である所以は、描かれたものの形や色にあるというよりも、むしろ見る人の眼と頭とに具有されている各種の要素の差についての総合認識作用にあるのであろう。絵の良し悪しの責任は、半分は見る人に負わせられることになる。特に墨絵のように簡単な線と一色の濃淡だけしか遣わないものでは、この見る人の眼と頭との作用を極度に利用する必要がある。・・・結局東洋画の真髄は観者を共同製作者にするにあるという昔からの言い旧された言葉を、妙な理屈で解説しただけのことだといわれるかも知れない。

では、具体的な技術としてどう描いていくべきか。中谷は墨画の名人がリンゴを描く場面に注目する。


津田さんは初めに皿を描いて、その上に林檎を描かれたのであるが、じっと林檎を眺めながら、輪郭の一部を描き、ついで特有な縦の凹みに当たる部分に一本の線を入れられたのであるが、その線をひくのに、津田さんは余所眼にも見える位極めて慎重であった。そうしたらただの線が急に林檎になった。・・・要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中に持っているらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とするための一つの技術は、観者の頭の中にある沢山の線の中の一本をぴんと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。

これは、マイケルの層の理論との関連で大変興味深いものだ。日常生活で一旦成立したヒトの脳内の全体像(林檎)は、諸細目のどれか一つを「ぴんと鳴らしてやれば」即座に実在として再現されるのである。マイケル-栗本に不足しているのは、この全体像の記録(記憶)-再現の機序・プロセスを多少なりとも脳生理学的に解明していく部分のように思われる(全体像の統合・創発については十分に語ってくれている)。