KUNILABO バタイユ入門(1)
【授業予定】
第1回 『内的体験』「不可能なもの」について考える
第2回 『呪われた部分』経済と贈与の関係について考える
第3回 『宗教の理論』現代社会における「聖なるもの」を考える
第4回 『エロティシズム』禁止と侵犯からエロティシズムを考える
『内的体験』は事前にざっと流し読み。ロンドンでベルクソンに会ったら「小心で小男で」落胆したって書いてあって、笑った。
佐々木先生は付箋をたくさん貼った原書を持ち込んでた。研究者はさすがだなー。
で内容はというと、真面目で普通。第1回終了後の生徒とのtwitterのやり取りでは、
昨日は「入門」の割には小難しい話になってしまったので、次回はもう少し分かりやすい話にしようと思います。
とのことだが、そんなに小難しいとは思わなかった。
バタイユの『内的体験』はそこそこ分厚い本だが、同じところをぐるぐる逡巡していて明晰とは言いがたい著作だ。佐々木先生によると「敢えてそういう表現をしている」とのこと。なぜなら、ヘーゲルが完成させたロジカルな形而上学の体系では「深淵」「内的体験」に触れることができないからなんだって。
でもそれって栗本風にいえば「ヘーゲルに対する単なるカウンター」でしかなくて、例えば
- 結婚という制度がキライなので婚姻届は出しません!
とかたくなに主張して、見えない制度を克服した気になっている幼稚な思考と余り変わらない。そんなカウンターじゃ何も新しい達成はないよね(バタイユの意図はそうじゃないのかもしれないけれど)。
言語的に徹底的に明晰に言い切って言い切り続けて、それでもなおどうしても表現不可能な何物か(=深淵/内的体験)が存在していることをあぶり出す。栗本先生は意識的にそういう戦略を採っていた。
僕らは如何にして深淵に触れえるのか。アルコールやドラッグの力でも借りるのかというとそうじゃない。バタイユによれば「理性の力を借りなければ至りつくことはできない」のが「深淵」であり「暗黒の白熱」だ。前述の栗本戦略を指しているようにも思える。皆ヘーゲルにならないと到達できないのだろうか。ハードルが、高い。
別の個所では「自己が自己を犠牲にするとき」自己と全体の融合が生じ、深淵に一歩近づくと言う。これはどういう状態なのか。
そもそもバタイユが「内的体験」を考え始めたきっかけは、メンタル不調でカウンセリングを受けた際に医者にもらった次の写真だ。
見るもあさましい凄惨な姿は血で縞模様をなし、一匹の雀蜂のように美しかった。
今では有名なこの写真。受刑者の表情は苦痛と至福の表裏一体にみえる(一説には受刑者はアヘンを吸引させられているという)。供犠。生贄。端的に言って「自己犠牲」「全体との融合」の一例がこれなのだ、きっと。
第2回は私の好きな『呪われた部分』。楽しみだ。
- 作者: ジョルジュバタイユ,Georges Bataille,出口裕弘
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