「新しい世界史の教科書」(仮) あとがき
長沼さんが先生の新著のあとがき(の一部)を先行紹介してくれている。
http://d.hatena.ne.jp/thunder-r-labo2/20130206/1360134029?_ts=1360161869
過去の本のあちこちでちりばめた地球史についての指摘は、読者が過去に優等生であればあったほど混乱を与えてしまったはずだ。その構築された通説での世界観をゆるがせたり傷つけたりさせてしまったはずだから、それらをまとめると地球上の本当の歴史はどうなるはずかということを、つまり真実の全体像を示しておきたかったのだ。
- 地球史について指摘した過去の本といえばまず思いつくのは『幻想としての文明』かな
- 作者: 栗本慎一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/10
- メディア: 単行本
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- いわゆる一般の「優等生」にはわからないかもね、とexcuseをつけるのが栗本流
要するに本書は少なくとも半世紀以上の、経済人類学による真実に対する愛と追求の末の結論を、一度、筋の通った形で後進に伝えておこうというものなのである。それだけである。
- やっぱり愛なんだよ、愛
- 後進を考える時期なのだ。Xデーを僕らは覚悟しなくちゃいけない
ただ、これにより、近代市場社会は人類普遍の社会ではないという経済人類学者カール・ポランニーの喝破も、古代社会の本質への見通しも、江戸時代の人口問題も、不思議な縄文社会の王国も、巨大前方後円墳の謎も、日本とヨーロッパの経済成長の基盤も、ヨーロッパ史における猫狩りと魔女狩りの愚かさも、今も続く中国の帝国主義の根源も、アラブ社会とイスラエルの激突も、みな有機的につながっているものとして理解できるはずだ。
- 大好きな猫をさらっとカブセてくるのもクリモト流(実際中世にあったのだ、猫狩り)
- 「有機的な繋がり」とは何なのか、なのだよ、問題は
一見ばらばらに見えても世界の動きの根源は一つである。ばらばらに見ているからばらばらに見えているだけで、われわれが生きている世界の動因は間違いなく一つだ。われわれは、決して個別ばらばらの生命を営んで生きているものではない。そんな力は今の人間にはない。
- 物事の動きや変化を引き起こすのは静的な「構造(必要条件)」じゃなくて「動因(十分条件)」
- あまり根源は一つだ一つだと連呼すると、究極原因一元論だと読まれちゃうのだが
- 過剰-蕩尽のシステムから逃れる力が今の人間には「ない」のだ
そもそも近代という事態あるいは現象自体が、すべてを合わせて一つの生命体のようなものだと考えるべきだ。実はわれわれは現象を作り出すために生きているのだ。生かされていると言っても、そう大きな間違いでもない。
- 一つの生命体だということは、各パーツには定められた機能があるということだが、では、パーツである個人あるいは個人の自由意志とは何なのか。
- 「事態」と「自体」でうっすらダジャレってるのがわかった人、手を上げて
私が過去にいくつかの場所で、あるいはいくつかの機会で、生命の意味は生きること自体にあると言ったのは、ほかでもないこういうことだったのだ。そこに深遠な意味をこめるつもりなど全くなく、直截的に述べただけのことだった。
- 個々の生命の意味は、上位の包括的全体たる生命体を生かすために生きることだ、と
- 俺(先生)にとっては直截的なだけだが「優等生」のみんなにはどうかな、深遠な意味を感じちゃってるでしょ、と暗に語るところも常套句
80年代にいろいろくどくどと「意味と生命」について論じたりしたが、意味も生命も静的なものでは絶対にないぞ、また動的なことでなくてはならないぞ、と強調した。要するに単純に生きることそれ自体が意味だと言ったのに過ぎない。
- 下位素材は動的に変化しても、上位の全体像は同一物として特定・維持可能なことの不思議さ(ガスの炎みたいなもの)
- 意味の勉強にはこちらがお薦め
- 作者: アラン・クルーズ,片岡宏仁
- 出版社/メーカー: 東京電機大学出版局
- 発売日: 2012/12/10
- メディア: 単行本
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存在とはEXISTENCEではなくBEINGなのだと言ったのも同じことだ。私はしばしば科学哲学者マイケル・ポランニーの言を借りて論じてきたものだが、今となってあっさり言えば、彼の言葉は私にとって勉強したから理解したというようなものではなく、勝手に向こうから飛び込んでくるように私の胸に響いたものだった。そういうものなのだ。
- 確かに胸に響くけど、勉強すると理解がもっと深まる。マイケルの言は、勉強して理解を深めたほうが絶対おもしろい。
マイケル・ポランニーの前には日本の文学者坂口安吾の日本史論にただただ納得共感したことがあって、おそらくきちんと分析すればマイケルと安吾に知的共通点があることが証明されるのだろうが、ここでもまた外的証明など何の意味もないだろう。