暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

メルロ=ポンティ、クラーゲス

メルロ=ポンティがその心身論で明確にクラーゲスを引いている箇所を備忘するとともに、マイケルの理論から補足を加えておきたい。

行動の構造

行動の構造

第四章 心身の関係と知覚的意識の問題

p.310

精神は身体を使用するのではなく、身体を絶えず物理的空間の外へ移行させながら、身体を通して生成するのである。

 →職人が道具を使うように、精神が身体を使うのでは「ない」と言っている。身体は対象ではないのだ。では精神と身体のダイナミズムはどのように記述されうるか。「身体を通して生成する」は適当ではあるが、我々の「創発」の説明には及ばない。

われわれが行動の構造を記述したのは、その際、行動の構造が<物理的刺激と筋肉の収縮との弁証法>には還元されえず、その意味で行動は、即自的に存在する<物>であるどころか、それを考察する<意識>にとってのみ意味を持つ全体だということを示すためであった。が、また同時に、「表現の動作」は、逆にわれわれの肉眼に見える<意識の光景>、つまり、<世界にやって来た精神>の光景なのだ、ということを示すためのものでもあったのである。 

→他人が私の心を知ろうとする場合、私の行動に潜入することで私の心に焦点を当てる。それが相手の心を知る認識の仕方だ。私のさまざまな行動は私の心に統合され、理解される。そして心/意識が現象するところが行動となる。「光景」などと表すよりも、創発の層の理論に基づき説明するほうがすっきりするし、包括的だ。

もちろん、そうは言っても、心と身体の間に、概念と言葉の関係にも比べられる<表現>の関係を無条件に仮定したり、また心は「身体の意味」であり、身体は「心の顕現」だと定義したりすることはやはりできない、というわけも十分に納得してもらえよう。

→これはクラーゲスに対する批判となっている。が、十分な批判足りうる説明を続けることができるのか。

こういった定式は、おそらく互いに結び合ってはいても、しかし相互に外的で固定した関係を持つ<二つの項>を思い出させるという不便を持っているからである。

→クラーゲスは二元論だと言いたげなポンティ。気持ちはわからないでもない。最終的にクラーゲスは魂と精神の双極性を語るのだし。だがしかし、クラーゲスの思想もマイケルの層の理論に照らして理解すると明解であり、決して二元論ではない。

勿論、非決定を孕むfrom-toの論理関係を主張する層の理論においては「不便」はなく、マイケル=クリモトにおいてその心身論は固定的な二元論に堕しようがないのだ。

しかるに、われわれの身体は、時には、生物学よりも高等な弁証法に属する<志向>を外に現すが、また時には、自らの過去の生活によって形成された諸機構の活動によって、例えば瀕死の人の身体運動のように、自分が今では持っていない<志向の身振り>だけをすることもある。いずれの場合も、心身の関係や、その関係項そのものは、「形態化」が成功するか失敗するかによって、或いはまた従属する諸弁証法の惰性が乗り越えられているかどうかによって、変わるのである。

 →from-toの論理関係(形態化)が成功裏に達成されるとき、我々の身体はsubsidiaryに感知されることで焦点たる心を発現する。それが<志向>だ。また、身体の境界条件=どのように行動するかを制御するのは心であるが、その制御度合は「ゼロから任意の値を取りうる」。瀕死の人の身体運動とは、上位層たる心の制御がゼロに近い状態だといえる。

 

このあと、ポンティの記述は更に冴えていく。