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暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

Eugene Paul Wigner その1

読書 Michael Polanyi

1963年にノーベル物理学賞を受賞したウィグナーとマイケルの関わりは深い。今回、ウィグナーのCollected Works Part B Volume VIIが入手できたこともあり、いくつかウィグナーについて整理しておきたい。

Historical and Biographical Reflections and Syntheses (The Collected Works / Historical, Philosophical, and Socio-Political Papers)

Historical and Biographical Reflections and Syntheses (The Collected Works / Historical, Philosophical, and Socio-Political Papers)

マイケルの知の系譜は、なんとトリウム溶融塩炉にまで繋がっていくのである。うんうん、すごいぞ、マイケル。(笑)

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物理学に生きて―巨人たちが語る思索のあゆみ (ちくま学芸文庫)

物理学に生きて―巨人たちが語る思索のあゆみ (ちくま学芸文庫)

「科学者と社会」E.P.ウィグナーより

 まずはじめに、この主題について私に多くを教えてくれた人物や資料について簡単に述べておきたいと思います。私の最初の先生はポラニーですが、彼に学んだことをひとつひとつ数え上げていたら話が先に進みません。

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私が17歳のときのことだったと思いますが、父が私に、「おまえは何になるつもりだね?」と尋ねました。私は、科学者、できれば物理学者になりたいと答えました。父は私がそう答えるであろうことに薄々気づいていたのでしょうが、ともかくこう言いました。「ふむ、ハンガリー全体で、物理学者のポストはいくつあるかね?」私は少し多めに「四つです。」と答えました。父は、私が大きめの数字を挙げたことには目をつぶって、お前はその四つのポストのうちひとつを取ることができるのかね、と言いました。・・・私の「博士号の父」であるポラニーは、父と私の三人で真剣な話し合いを持った際に、科学者として生きることはもはや非現実的ではなく、現実的に考えるべきだと指摘しました。

「物理学とその時代 あとがきに代えて」青木薫より

ウィグナーは物理学の勉強を続けたかったが、父の説得に応じ、ベルリン工科大学では化学工学を専攻した。化学工学の学位論文は、本講演にも出てくる分子の会合反応に関するもので、マイケル・ポラニーとの共著として学術誌に発表された(1925年)。博士号を取得したウィグナーは実家に戻って家業に携わったが、自分の生きる場所はここではないという思いに悩まされた。そこに幸運にも、当時ポラニーのいたベルリンのカイザーヴィルヘルム研究所から、「群論を勉強して結晶格子の解析を手伝ってくれる人物を捜している」との手紙が届く(1926年)。

 ウィグナーがマンハッタン計画に参画し戦後にはオークリッジ国立研究所で核エネルギーの平和利用の研究に携わるのは、この博士号の知識を生かしたものでもあった。ここで登場するのが、トリウム溶融塩炉とウィグナーの関係だ。

原発安全革命 (文春新書)

原発安全革命 (文春新書)

第九章 「革命的な原発」の再出発 より

さて、ひと通り溶融塩炉を理解して下さった人々からの最初の質問は、必ず「そのように良いものなら、なぜ今まで放置されてきたのか?原発最強国の米国はなぜやめたのか?」である。・・・1930年代に重要な四人の科学者がブタペストから米国に亡命してきた。その一人がユーゲン・ウィグナーで、人類最初の原子核エネルギー実用炉(原爆用プルトニウム生産炉)を完成させたが、その後、戦中シカコ大学で催された「原子炉セミナー」で彼が結論づけたのが、次の原則である。

---核分裂は原子核物質が変化する「化学反応」である。したがって、当然なこととしてこの反応を利用するものは「化学工学装置」となる。もっと明確にいうと、この核分裂反応遂行、その反応生成物処理・処分・使用可能な残渣の処理・再利用を経て、次の核分裂反応炉に循環させる「核燃料サイクル化学工学」を完成させる仕事が「事業の本質」である。直接有用な「発電」などは、そのごく一部の作業に過ぎない。---

しかもウィグナーは、「化学工学装置ならば反応媒体は”液体”が望ましく、その”理想形態の原発”はおそらく"溶融フッ化物塩燃料炉" であろう」とまで予言していたのである。「溶融塩炉まで一気に論じていた」と聞いて、多くの読者は「本当か」と驚かれるであろうが、彼は初代所長として世界最高の原発開発センター・オークリッジ国立研究所をせいびしし、次いで高弟のワインバーグを次代所長に推挙した。そのワインバーグが指導して、この「溶融塩炉」の基礎解発を成功させたのである(1945~76年)。