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暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

Polanyi's Logic - Answer

Michael Polanyi

先日届いた本から、さっそく訳出してみよう。これは、"The Study of Man"の第三章でもっと詳細に展開されているマイケル史学の科学的方法論の一端を示す小論だ。栗本新世界史を我々はどう解釈するべきか、その補助線になるだろう。

 以下の文章は(短いが)、価値判断をしない、道徳的に中立な歴史研究(人間の研究)に反対するマイケルの立場の貴重で簡潔な要約になっている("Knowing and Being"所収の第二論文「ハンガリー革命が伝えるもの」も参照されたい)。

 1965年にEncounter誌に掲載された"On the Modern Mind"でマイケルは次のように述べた。

「善か悪かという価値評価をせずに人間の行為を説明することが出来ると仮定することは、道徳的な動機が人間の行為に何の役割も果たさないと仮定することだ。こうした仮定をあらゆる社会的行為に適用することは、生来人間に備わっている道徳的動機の存在そのものを否定することになる。」

 これに対しカナダ・アルバータ大学のGwynn Nettler教授が「マイケルの話は虚偽であり、間違っている」と指摘し、それに反論している訳だ。

ここまでは編者のR.T.Allenによる解説。とても親切なAllen。そして次からがマイケルのNettlerに対するAnswerだ。

 Nettler教授が提起したのは大変重要なポイントだ。科学は道徳的判断なしで人間の活動を理解することができると1902年にリッケルトが表明し、マックス・ウェーバーによりこうした見方はかなり広まった。事実、(歴史)学界全体はこの目的に向かって進んできた。ときには、道徳的動機の存在を否定せず、かつ価値判断にも基づかない説明が可能かという議論がでることもあったが、主流派となることはなかった。善か悪かという価値判断をせずに人間の行為を説明することは、道徳的な動機が人間の行為に及ぼす影響を否定することだという私のこの考えは主流派と対立しており、だからこそ主流派たるNettler教授は社会学での確立したご意見をお持ちなのだ。私にとってあまりに明白であることが、彼と彼が属する社会学界には全く受け入れられないのだ。

 どうやってこの明白な話を証明しようか。私は2つの論理的な事例を示してみることにしたい。

 1つ目の例。 法律が求めていることを考慮せずに、ある判決を科学的に説明できるだろうか、と。この場合、判事が判決をどう下すかという理由付けについて法令は影響を及ぼさないということになる。

 判事は自分の判決が法に従っていると信じており、それを観察することで科学はその判決を説明することが可能となる。これはリッケルトやウェーバーが価値関係で価値判断を置き換える方法だ。それに対し我々は、判事の判決は説明され得ないまま残っていると主張する。なぜなら、法の趣旨に沿うという判事の信念について説明が必要だからだ。法に従うという判事の信念が、法の寄って立つ価値と関係なく説明できるのなら、くどいようだが法は判事の判決に影響を与えないということになる。

  二つ目の例。ジョンソン大統領は道徳的に正しい公民権法を導入した。この公民権法が道徳的に正しいかどうかを語らずにジョンソンの行為を社会学者が説明できるというならば、ジョンソンの行為と道徳的正しさは関連がないと主張していることになる。こうした結論(事例1を含む)を回避しようとするなら、大統領は道徳的な法の正しさを信じて公民権法を制定したのだと社会学者は観察することになるし、そうするとジョンソンの行動には未だ説明されていない点が残ることになる。なぜ大統領は公民権法が道徳的に正しいと信じたのか、という問いだ。もし社会学者が、善悪の判断なしに大統領がこのような信念を持っていたと理解しようとするなら、再度くどいようだが、道徳的な動機は大統領の行動に全く影響を与えないと主張することになる。

 結論。社会学者が善悪の価値判断無しに人間の行為を説明しようとするなら、人間の道徳的動機の役割を無視することになる。以上。