暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

アクチュアルって言いすぎ!

日本の個人主義 (ちくま新書)

日本の個人主義 (ちくま新書)


歴史的・社会的な観点から観える「個人」と、物理化学的身体の諸反応から立ち現れる「個人」。どちらの視点からもその「個人」はあいまいに見える、というのが筆者の大きな論点。僕に言わせればこれは「レベルと焦点の違い」ですっきり整理できると思う。

    • 既に成立している「社会」の視点からすれば、それを構成する諸細目たる「個人」にはもう焦点が当たっていない。レベルがひとつ上の、全体像たる「社会」に焦点が当たっている以上、個人はあいまいにしか認識されようがない。自転車を漕いでいる時に、足が何回転したか、重心を右にどれだけ移したかは全く意識にはのぼらない、はずだ。
    • 物理化学的身体の化学反応から見上げると、「個人」は、まだ像を結んでいない、ぼやっとした輪郭でしかない。認知科学が提示する材料の一つ一つは、ばらばらに分解されたからくり人形の歯車やゼンマイがどのように運動を伝達するかを記述はしてくれるが、組み立てられた人形がお茶を運ぶサービス(全体像)を記述するものではない。
    • では、上位のレベルからも下位のレベルからもあいまいに見える対象をどう記述できるか。残った視点は、「個人」と同一レベルであってかつ「個人ではないもの」を記述すること、でしかないはずだ。「個人とは何ではないのか」という消去法。