暗黙の焦点 別宅。

Michael Polanyiに捧げる研鑽の日々。

美味しんぼは究極の料理をどう提示するか

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))


単行本で既に93巻を数える美味しんぼの連載が佳境に入った。ついに「究極のメニュー」と「至高のメニュー」を完成させる時がきた、のである。キーワードは医食同源のようだが、さて作者の雁屋哲はどんな食思想を提示してくれるのか。

子供が生まれたこともあり、極東ブログでも書評されていた(参照)三木成夫の本を読み進めている最中に、おもしろい記述があった。白米から玄米に主食を変えたところ、おかず(副食)の好みにも大きな変化がみられた、というのだ。白米時代にはおいしく感じられた肉や魚が、玄米にしたとたんそのうまみがどこかへ霧散してしまい、大豆ベースの納豆や豆腐、ゴマやワカメやワラビなどが後光が射すほどおいしく感じられるようになる、という。この副食の変化を三木は次のように理解・説明する。

それは、副食が生物系統樹の梢に沿って、人類の出る霊長類の枝から次第に遠ざかる、ということだ。まず獣肉のなる哺乳類の枝から鶏肉のなる鳥類・爬虫類の枝を経て魚のなる魚類の枝へ、さらにこれら脊椎動物門からイカ・タコ・エビ・カニという無脊椎の各動物門へ、そしてついに動物界から植物界へ、それも大豆の近代植物からワラビ・ワカメの古代植物へ、といった具合に。(P30)

玄米食が、人類にとって系統的に遠い植物系の蛋白質を摂取させる方向へ、味覚の快感を変化させるというのである。三木の主題は生命進化の連続性とその回帰であるが、この現象(もし本当なら)はいろいろな方向へ議論を広げていくことができるだろう。誤解のないように言うと、三木は決して動物性蛋白不要論を述べているわけではない。現代栄養学的にも、雑食である我々人類にとって動物性蛋白質は有効だ(肉食動物では動物性蛋白質から得たアミノ酸だけしか有効に活用できず、植物性蛋白は消化できない)。突っ込むべきはそこではない。
各個人の意思でおいしいと決定し選択していたはずの動物性蛋白指向が、玄米の摂取と消化という体内の物理化学的なレベルの一撃で、いともたやすく変更されてしまう不思議。我々の意思はなんと脆弱なことか。